断片日記

断片と告知

ひめりんごの枝

アトリエとして借りているアパートから歩いて五分もかからないくらいだろうか。いくつかの駅に歩いても行けるが、どこの駅からも少し不便な場所に、小さな商店街が生き残っている。
この地域で一軒だけ残る銭湯をほぼ真ん中に、肉屋魚屋八百屋パン屋惣菜屋飯屋雑貨屋クリーニング屋花屋整骨院床屋古本屋など、古くからの住人と学生が多い町で、毎日の生活に必要なものを売りながら、小さく長く続けてこられた店が、道の両脇にぽつぽつと生き残っている。散歩で通りすぎるのではなく、立ち止まって部屋を借りてみると、不便な場所でどうして生き延びてこられたのか、不思議に思っていたこの小さな商店街のありがたさがよくわかる。アトリエとして借りたこのアパートを管理する大家の店も、そんな小さなぽつぽつのなかにある。
アパートを契約するさい、家賃は振り込みと手渡しのどちらかを選べたが、ほかの人たちもそうだからと聞き手渡しを選んだ。毎月の終わりに、翌月分の家賃を持って大家の店を訪れる。面倒に思う反面、床屋談義とでもいうのだろうか、この町で長く商売を続けてきたからこそ聞ける話もあり、楽しみでもある。小さな帳面に日付と判子をもらいながら、今月もまた大家と話す。話題はおそらく、先日越していった隣りの彼女だろうと予想しながら。
夜逃げだったのよ。何も言わずに出て行ったのよ。
大家の声と顔がつりあがるなか、わたしはあの日の、西日に照らされた彼女の顔を思い出していた。
あの。転居するの。
明後日になったんですよ。引越。
おだやかな顔をしていた。美しくさえ見えた。それよりも、彼女はわたしに引越の日を告げていた。
でも、あんな昼間に。引越し屋までいて。
引越の日、路地に並んでいた彼女のダンボールから突き出た人形たちの首が、ふいに頭に浮かんで消えた。大家から聞かれたいくつかを口ごもりながら答えたが、わたしは彼女から引越しの日を告げられていたことを、ついに話すことができなかった。
アパートの裏手には、町中にはめずらしく、このアパート三軒分はありそうな大きな空き地が広がっている。端に立派な銀杏の木、真ん中に小さなひめりんごの木、夏には下草が人の背丈ほども茂り、冬には枯れた草の上で猫たちがよく寝ている。アパートの二階、わたしの部屋の流しの窓から、この空き地がよく見える。四方を塀とアパートに囲まれた、草と木が茂るままに放っておかれた空き地は、人の手が入らないからこその美しさがあり、ここを借りた決め手のひとつでもあった。
いつごろからだろう。空き地にゴミが放り込まれるようになった。毎日ではないが、気づくと点々と白いポリ袋が増えていく。空き地が夏の濃い緑に染まっていくなか、流しの窓から見える白い点々は、どうにも目立ち不快だった。近くに悪ガキでも越してきたのか、ゴミにつられてゴミが捨てられていくのか、捨てている人を見たこともなく、いつの間にか増えていくゴミを気持ち悪く眺めていた。
ある日、ゴミの放り込みがぴたりと止んだ。止んだことをよろこんだが、以前のゴミは以前のままある。わたしは流しの窓から見える、人の手の入らない空き地を取り戻したかった。大家に断りを入れ、空き地の掃除をすることに決めた。
東京都推奨の大きなゴミ袋を持って空き地に行った。二階の流しの窓から見えていた夏草の茂る美しい空き地は、降り立ってみれば猫の糞だらけだった。わたしは猫の糞をよけながら、大きなゴミ袋に空き地に散らばる白い点々を放り込んでいった。白いポリ袋は持ち上げてみればいずれも軽く、コンビニ弁当の空箱の重なりがすけて見えた。路地に面した塀があるとはいえ、こんなに軽いものを、空き地の奥まで放り込めるのが不思議だった。
ポリ袋の散らばりは、空き地の真ん中、ひめりんごの木に近づくにつれ増えていった。わたしはポリ袋を拾う手を止め、ふとアパートの二階を見上げた。
ひめりんごの枝の先に、隣りの彼女の流しの窓が見えた。流しの窓から弧を描いて、空き地に落ちていく弁当の空箱。
ガスも電気もひかない暮らしで食事はどうしていたのか。彼女の部屋に散らばっていた川魚の産卵のようないくつものポリ袋。箪笥のうえの人形と、小さな仏壇に並んでいた彼女の身内。
空き地になど降りなければよかった。猫の糞、弁当の空箱、ひめりんごの枝の先、どれもわたしにはいらないものだった。放っておかれた空き地は放っておいたまま、二階の流しの窓からただ見ていればよかったのだ。
ひめりんごの周りは藪が深く、虫も猫の糞も多く、手の届かなかったポリ袋のいくつかは、空き地に残したままになった。枝にポリ袋をさげたまま、ひめりんごの実が赤く色づいていく。
こんにちは。さようなら。わたしは流しの窓を閉め、隣りの彼女の美しかった顔を忘れた。