断片日記

断片と告知

木の桶

どこに行こうかな、と銭湯マップを開く。できれば行ったことの無い場所、普段行かないようなところ、に行ってみたい。23区別の銭湯の紹介とその横の小さな写真を見ながら考える。木の桶を積んでいる銭湯の写真が目に入る。プラスチックの、ケロヨンの、牛乳石鹸の、桶はよく見るけれど、銭湯で木の桶にはまだお眼にかかったことがない。ここに行こうと決める。
地下鉄を乗り継いで押上駅まで、押上から京成押上線曳船駅まで。曳船駅の細長いホームに降りる。見渡すと、ホームの端と端に自動改札が2つずつついている。向い側の下り電車のホームも同じようになっている。その2つずつの改札を出ると目の前は、すぐ生活道路。都電並に小さな駅だ。そしてこうゆう駅は好きだ。
銭湯の開く時間には、まだ早い。地図を見ると東向島が近い。せっかくならば、墨東綺譚の、寺島町綺譚の、あの旧玉の井、を見に行こうと思う。詳しい場所はよく解らないけれど、行けばわかる、という根拠のない思い込みで歩きだす。東武鉄道の博物館がある。小さな町工場がたくさんある。ガチャコン、ガチャコン、と何かを作っている正しい音がする。昼寝をしている猫がたくさんいる。のどかな町を歩いていく。
東向島駅が旧玉の井駅だから、とその周辺を歩きまわるがよくわからない。小さな路地があるたびに、そちらに吸い寄せられるが、タイル張りのそれらしい建物がない。古い建物が顔を出すたびに、じっと見るけれど、どうも違う気がする。
駅前で場所を尋ねると、それは谷崎さんの方か、吉行さんの方か、と逆に尋ねられると、昔読んだ玉の井を特集した本か雑誌で読んだ気がする。私が行きたいのは、たぶん谷崎さんの方なのだけれど、そちらは空襲で焼けてしまっているはずだから、行くなら吉行さんの方かしら、と思いつつも、町行く人にそんな質問をする勇気がない。そして結局、よく解らない。家に帰ってから調べて見ると、まったく見当違いの場所を歩いていたと知る。それでも、この辺を滝田さんも下駄で歩いたのかしら、と思いながらの散歩は楽しかった。
曳船まで戻り、銭湯「曳船湯」に行く。期待したとおりの古い木造の銭湯。3時半からの1番風呂に入る。まだ明るい時間に入る銭湯は格別である。しかもこの曳船湯の窓にはまっているのは透明のガラス。今はどこも窓の外に目隠しがあったり、磨りガラスだったりして、外からも中からも見えなくなっているのに珍しい。あまり周りに高い建物がないからだろう、外の景色も光も透明のガラスを通してよく入ってくる。気持ちがいい。銭湯の良さは、大っぴらさ、だと思っているので、多少見えてしまっても、これくらいの方が気分がいい。念願の木の桶。ずしり、と重い。お湯を入れるとさらに重い。体の上に持ち上げるたびに、よいしょ、と気合を入れながらお湯をかける。よいしょ、よいしょ、よいしょ、と体を流し、湯船に入る。見上げると、洗い場の天井も格天井なのが珍しい。窓が透明なので、空が見えるのも、男湯の明り取りの窓から、この銭湯の煙突が見えるのも、珍しい。
銭湯から出て、キンッ、と冷えた生ビールを飲ませる店があればそこに駆け込むのだけれど、それが無い時は、近くの酒屋に駆け込む。コンビニよりも酒屋のほうが、ビールをちゃんと冷やしているからだ。酒屋のレジでお会計をしていると、いい顔色ね、どこかに行って来たの、と聞かれ、そこの銭湯です、と答えると、あの銭湯いいでしょ、よくロケにも使われるのよ、と酒屋のおばちゃんは何故か話し好きが多い。冷たいビールを握り締め、酒屋から一歩出た瞬間にプルタブをグイっと引き、その次の瞬間で口の中に冷えたビールを流し込む。あぁ、幸せ。
曳船湯