断片日記

断片と告知

上田六文銭の旅その2

朝9時、ロビーで待ち合わせ。コンビニで朝飯を買い、千曲川の土手に行く。4人で土手に座り、黙って朝飯を食べ、黙って朝の千曲川を見る。川の向こうの太陽がまぶしい。東京に比べて上田の太陽はやけに大きくまぶしく見える。
Kさんの家に行き、Kさんの家の隅々を案内してもらう。何代にも渡って、増改築を繰り返してきた家の中は、迷路のようだ。中心に池のある庭があり、庭の周りに、母屋とお蔵が点在している。はじめにお蔵を案内してもらう。昨日見たお蔵と同じ、暗い中に、生活や事業で使っていた何かが、放り込まれ、埃をかぶっている。生まれてから一度も開けたことがないというお蔵には、農具が詰まっているらしい。唯一、今でも使っているお蔵は、味噌や醤油などの食料貯蔵庫になっている。
母屋の2階には、使っていない40畳の座敷がある。女性が温泉に入っている巨大な油絵が、額からはがれ、座敷の隅に置かれている。何かに使えそうな広さだが、電気がきておらず、天井を見ると、電灯の笠がひとつもない。古い箪笥の残る座敷。大きな仏壇と先祖代々の人たちの写真が飾られた座敷。ガラス戸もない、吹きさらしの廊下の奥にある風呂場。広い古い家は、外と内との境界線があいまいで、どこにいても寒い。母屋もお蔵も所々、屋根が落ちかけている、壁が剥がれている、重さに耐えきれなくなった梁がたわんでいる。地震があると怖い、とKさんが言う。
古いものが積み重なった家の中で、Kさんの部屋だけは、さっぱりと何もない。白い壁の中に、ベッドと机と椅子、しかない。本をたくさん読む人なのに、さっぱりと売ってしまったから、本棚もない。
Kさんの部屋の窓から、お蔵の壁が見える。屋根のすぐ下の白い壁に、太い刷毛でこすったような、黒い線がうねっている。子供の落書きのように見えるが、戦時中、白い壁は標的にされるからと、塗ったものだという。珍しがるわたしたちに、落書きのあるお蔵は普通だと思ってた、とKさんは言う。
昼飯を食べに、池波正太郎が通っていたという蕎麦屋に行く。1階は満席で、2階の座敷にあげてもらう。せっかくだからと奮発して、瀬戸さん、橋本くん、わたしで、天ざる蕎麦を頼む。蕎麦の量は、と店員さんに聞かれ、小・中・普・大、と書かれている中の、普、をお願いする。普と書かれているなら普通だろうと頼んだ蕎麦は、出てきてみればどう見ても超大盛りで、普でこの量なら、大はいったいどんな量なんだと。そういえば昨日の昼飯で食べた蕎麦も多かった。東京のちょっといい蕎麦屋で食べる一口で食えそうなちょろっとした蕎麦と、蕎麦どころの蕎麦の量は違うのだ。ビールも飲んでいたせいか食べきれず、Kさんに手伝ってもらう。
座敷の飾り棚に置かれていた小さな和綴じの本を、瀬戸さんが目ざとく見つける。表紙には「史的二上田」と書かれた紙が貼られている。ぱらぱらと中を見ていた瀬戸さんが、これ銭湯ですよ、と1冊渡してくれる。何冊かある「史的二上田」の、(十五)と書かれた1冊を見る。文庫よりも小さな和綴じ本の中に、上田の銭湯についての文章と図録が、きれいに読みやすく収まっている。奥付を見ると、飛古路の会、というところが作っている自費出版の冊子らしい。(十五)は銭湯だが、20数冊出ている双書それぞれが、上田の特産名物文化を取り上げている。これは手に入れたい。奥付の連絡先を書き写す。
一足早く往来座号で東京へ帰る瀬戸さんと橋本くんを見送り、駅前でKさんと別れ、上田駅から上田電鉄別所線に乗り、塩田町を目指す。千曲川の土手から見えていた鉄橋を走る2両の電車。大きな駅以外は、2両あるうちの1両目1番前の扉からしか乗り降りできないワンマン電車。ほとんどが無人駅で、簡単な屋根とホームしかない。駅員のいない駅は、電車の中で切符をもらい、降りるときに清算する。知らない町を歩くことは怖くはないが、知らない町のはじめての電車に乗るときは、いつも少しだけ怖い。
1両目が混んでいたので、2両目に乗る。周りを見渡すと、2両目に乗っているのは学校帰りの中高生ばかりで、全員が携帯電話の画面を見ている。降りる駅がきても、慌てず、ジャージを穿いたたくましい足で、のしのしと1番前の扉まで歩いていく。ゆっくりでも待っていてくれるのか。見習おう思ったが、つい気がせいて、塩田町駅で慌てて降りる。
塩田町駅から「無言館」まで歩く。駅からの距離2300メートル、と標識に書いてある。この標識が分かれ道には必ずあるので、地図を見なくても歩けるのがうれしい。駅前の民家を抜け、ため池の横を通り、刈り取られた田んぼの間を歩き、正面の山が少しずつ近づいてくる。民家のまばらなこの辺りでも、当たり前のように蕎麦屋だけはある。東京でどんな街でもラーメン屋の看板を見るように、上田周辺では、新そば、などと書かれた蕎麦屋の看板がどこにでもある。
小さな山の上に「無言館」は建っている。余計な飾りの一切ない、教会のような、修道院のような造り。重い扉を開けると受付のようなものは見当たらず、いきなり、暗い空間に飾られた、いくつもの絵が目に飛び込む。絵の下には題名の他に、名前、生まれ、卒業した美術学校名、簡単な経歴、戦死した場所、享年、が書かれている。爆死、病死、消息不明。ほとんどの人が20代はじめから30代で、亡くなっている。どの絵もまだこれからの、若くまじめな絵で、いいなと思う絵もあるが、うまい絵すごい絵とは違う。ただ。まじめに描かれた油絵の下に貼られた、裸婦のモデルは画家の妻か恋人で、帰ってきたらこの続きを描くよ、と出兵したまま戻ってきませんでした、と書かれたプレートの文字を読んでしまうと。帰ってこなかった弟の絵を大事に守って独身で生きてきた姉。この絵の具がなくなったら行くよ、と最後まで絵を描いていた息子。プレートの文字に感情が引きずられ、どうやって絵を見ていいのかわからなくなる。客はわたし以外に、おじさんが4人。誰も一言も発さない。ときたま鼻水をすする音だけが聞こえる。「無言館」が、第二次世界大戦で若くして亡くなった画学生たちの作品を集めた美術館だと知ってはいたが、この場所は、思っていた以上に、暗く重い。
すぐ近くの「無言館第二展示館」、隣りの丘の「槐多庵」と「信濃デッサン館」も見る。「無言館第二展示館」は、「無言館」よりも日本画の作品が多く、天井一面にびっしりと、デッサンや下絵が貼られている。「槐多庵」では「保田春彦」展を、「信濃デッサン館」では村山槐多や関根正二など、早世の画家たちのデッサンを見る。槐多は22歳で、正二は20歳で亡くなっている。が、残された絵は、10代20代で描かれたと思えないほどうまい。同じ早くに亡くなっても、個々の名前を残せる人たちと、残せない人たちとの、大きな差。こんなに力強い絵を書く人たちが、あっけなく病気で亡くなってしまうことの不思議。
信濃デッサン館」の前庭から、町が見渡せる。遠くに別所線の2両の電車が走っている。右手の賑わっている町は上田の辺りか。左手の湯煙に包まれた町は別所温泉の辺りなのか。息をきらしてのぼってきた道を、駅を目指して今度はくだる。田んぼの中の道。右手の山の上に大きな丸い月、左手の山の上に夕焼けで染まった赤い空。
上田に戻り、柳町の銭湯「柳乃湯」に行く。北国街道の中の、古い町並みが残る、柳町。そこから路地を入った先、用水路のような細い川沿いに、「柳乃湯」は建っている。街灯の少ない暗い路地の奥で、入り口の暖簾の周りだけが、ぽっと明るい。洋風の古いコンクリートの外観。暖簾の上の外壁に「柳乃湯」の文字が、コンクリか何かでこて絵のように盛られている。左手の女湯のドアを開ける。目の前に下足箱、右手に番台がある。東京では、男女共通の玄関がまずあり、下足箱もそこに面してあり、その奥に男女別の扉がある場合が多いが、地方の小さな銭湯では、入り口からして男女別で、女湯男湯それぞれの扉の奥に小さな玄関小さな下足箱がある場合が多い。
脱衣所は天井も低く、さっぱりとした造り。左の壁一面にロッカーもあるが、床に脱衣籠もある。2人分の真っ白な敷布団が敷かれたベビーベッド、体重計、なぜかルームランナーがある。
洗い場。シャワーも鏡もない古い島カランがまんなかに1列。他のカランは、よくある赤い玉と青い玉のカランなのに、島カランの一番はじのひとつだけ、古い銅か何かの金属のカランが残されている。正面奥の壁に湯船。大きさは同じ2畳くらいの、浅いのと、深いの。どちらの湯も、緑色の入浴剤が入り、とてつもなく熱い。浅い湯船に足だけつかり悶絶しているわたしに、深い湯船に肩までつかる常連のおば様が、水で薄めたら、と声をかけてくれる。熱くないんですか、と聞くと、熱いほうが好きなのよ、と言う。湯船からあがったおば様の体は、肩から下の肌が線で引いたように真っ赤だった。ペンキ絵などの装飾はない。床のタイルは、濃い緑と薄い緑のタイルで模様のようになっている。天井や壁は薄い灰色で塗られている。女湯男湯の天井の真ん中に、通気口か明り取りの穴が、大きく開いている。脱衣所も、洗い場も、東京のように高く広いところは稀なのだと、違う場所の銭湯にいくつか通いやっと気づく。
脱衣所で着替えながら女将さんに話を聞く。出来たのは大正時代。戦後改築をして、はじめから残っているものは骨組みくらい。外の川に面したソーラーパネルは寒暖の差が激しくてひび割れ、助成金が出れば直したい。もっと若い人たちにも銭湯に来て欲しい。
いま上田市に残っている銭湯は、この「柳乃湯」を入れて3件だけ。蕎麦屋で見た「史的二上田」(十五)には、最盛期には30軒以上の銭湯が上田にもあった、と書かれていた。
缶ビールを買い、サンドイッチを買い、7時過ぎの新幹線に乗り、あっという間に上野に着く。帰りに古書往来座に寄ると、さっきまで上田で一緒に蕎麦を食っていた瀬戸さんが、当たり前のように働いていた。
柳乃湯:上田市中央4丁目10−1
夜と朝の千曲川の写真はこちら:はてな