断片日記

断片と告知

ただいま食事中

アトリエの冷蔵庫を開けると、秋味、と印刷された缶ビールが2本入っていた。しばらく前、差し入れに貰ったまま、飲まずに忘れていたものだ。1日仕事のゲラを読み、食べものがたくさん出てくる話だからか口寂しくなり、夕方、冷蔵庫を開け、缶ビールの爪にカチリと指をかけた。飴色のコップにビールを満たす。いつも飲んでいる緑色のビールよりも、苦くて重い味が口に広がる。飲みはじめてしまえば、今日の仕事はもうお終い。買ったばかりの雑誌に手を伸ばす。
雑誌「クウネル」の最新号を買ったのは、ただいま食事中、の連載に、倉敷の古書店蟲文庫田中美穂さんが載っているからだ。今年の8月、鹿児島で個展をしたさい、搬入を兼ねて鹿児島に行き、少しずつ東京へ戻りながらの旅の途中で、倉敷の蟲文庫を訪ね、田中さんにお世話になった。昨年の8月の同じころも、蟲文庫で個展をしていたわたしは、やはり田中さんにお世話になっている。田中さんにお世話なるとは、田中さんの作ったつまみや飯をご馳走になり、田中さんの家に泊まらせてもらう、ということだ。
鹿児島、博多から、小倉、尾道、と寄り道をして、倉敷に着いたのは夕方だった。蟲文庫を訪ねると先客がいて、話しの邪魔をしてはと、田中さんに挨拶だけして、尾道の坂でかいた汗を流そうと、近くの銭湯に向かった。銭湯に行く途中、融、という名の民芸品店に寄った。見終わって外に出ようとすると、先ほど、蟲文庫で見た先客とすれ違った。蟲文庫ですれ違っただけのわたしに、こんにちは、と目を見ながらその人は言った。こんにちは。慌てて返すわたしに、オオヤコーヒさんですよ、たぶん、と珈琲好きの王子が、小さな声で教えてくれた。
カランが6個しかない、床も湯船も大谷石でできた倉敷の銭湯で汗を流し、汗で湿った服を洗おうとコインランドリーを探したが見つからず、だいぶ遠回りをして、ちょうど閉店のころ、蟲文庫に戻った。蟲文庫の帳場兼座敷に置かれたちゃぶ台に、田中さんの作ったつまみが並び、昨年ピンクの曇天画を買ってくださったAさんが来て、田中さん、Aさん、王子、わたしの4人で、宴会がはじまった。
田中さんの作ったつまみ、Aさんの差し入れのたこ刺しと日本酒、わたしが鹿児島から送った焼酎、が並ぶちゃぶ台を、田中さんは写真に撮った。次の「クウネル」の、ただいま食事中、に載るかもしれないからと。
ただいま食事中、は、雑誌「クウネル」の中で、わたしが一番好きな連載だ。毎号、誰かの食事風景とコメントおよそ1か月分が見開き1頁に並ぶ、ただそれだけなのだが、人が日々なにを食べて暮らしているかを知ることが、こんなにも楽しいものなのかと、あらためて気づかされる連載なのだ。
田中さんの、ただいま食事中、には、日々田中さんが作る、食べる、おかずや飯にまじって、カブトガニ饅頭、が出てきたりする。田中さんを知っている人、蟲文庫の蟲日記を読んでいる人なら驚きもしないだろうが、知らない人が見ればどう思うのだろうと、可笑しくなる。
4日目・おやつ、に紹介されている、藤井くんちの白桃、の藤井くんは、魚雷さんの友人の、昨年蟲文庫で一緒に飲んだあの藤井さんのことだろう。10日目・朝、の桃トーストは、蟲さんの家に泊まった日の朝食に出してくれたのと同じもの。15日目・昼、わたしたちが訪ねる前、田中さんの昼飯はくず野菜のカレーだったのだ。16日目・朝、の素うどんは、桃トーストを食べたあと、蟲文庫まで行く途中、3人で食べたあのうどんだ。18日目・おやつ、のかるかんは、王子が田中さんへ贈った鹿児島土産。小さな写真、たった4行のコメントから、蟲文庫と田中さんと過ごした、8月の記憶が立ちのぼってくる。
今号の特集、街と喫茶。で、全国の喫茶店を紹介しているのは、倉敷ですれ違った、オオヤコーヒのオオヤさん。オオヤさんが今回惜しくも紹介できなかったと書くのは、下品な缶ジュースの持ち込みお断りの張り紙のある、わたしが通っていた、セツ・モードセミナーの喫茶室。
すれ違った人、行ったことのある場所、お世話になった人たちが出てくる今号の「クウネル」。東京に戻ってから、倉敷で買った石川昌浩さんの飴色のコップで飲む毎日のビール。8月を思い出しながら。