断片日記

断片と告知

あの日にかえりたい

陸前高砂駅から蒲生干潟までの七北田川沿い。川沿いの道から、小さな平屋の一軒家が見えた。波にさらわれた跡の残る、人気のない家が並ぶなかに、その一軒だけ、車がとまり、洗濯ものが干され、ひとの暮らしの気配が見えた。開け放された玄関から、周りを気にすることなく、町中に聞かせるくらいの音量で、歌が流れていた。
あの頃のわたしに戻って
あなたに会いたい
聞こえてきたのは、行きも帰りも同じ、荒井由美の「あの日にかえりたい」。
昼飯に寄った食堂で、波にさらわれた男が助かった話と、自転車で見に行ったまま戻らなかった男の話を聞いた。ラッキーな人はなにをしてもラッキーなのよ。食堂の店主の声は、震災のあった日から2年間、さらされ漉され続けた液体のように、澄み、ふっきれていた。日本有数の干潟なの。ふっきれた声が、川沿いを歩けばやがて着くと、蒲生干潟を教えてくれた。
干潟に向かう道は高台で、波にさらわれた町が見渡せた。二階建ての一階だけ泥まみれの家、二階の屋根まで潰れている家、基礎のコンクリートだけ残る家。干潟が近づくにつれ、町は平らに、夏草に埋もれていった。道路標識に書かれた亘理の文字を見て、菅原克己の生まれた町だと、横を歩く男が言った。夏草と、まだ新しい慰霊碑と、無理やりはがしたぼろぼろのかさぶたのような防波堤の先に、蒲生干潟があった。
かさぶたの防波堤にカップルが一組、干潟を背に町を見ていた。町のむこう、ニュースで見たような瓦礫の山の後ろに、小さな観覧車が見えた。子どもや大人、幾人もの釣り人たちがいた。空も雲も草も干潟も人も、さらされ漉され続けたのか、あっけらかんとそこにいた。
ふと、歌っているのは荒井由美ではなく、波にさらわれたこの町な気がした。
ラッキーな人はなにをしてもラッキーなのよ。店主の声がふいに流れた。小さな白いヘルメットがひとつ、波打ち際でいつまでもゆれていた。