断片日記

断片と告知

バイバイ、レンゲ畑

早稲田・古書現世の向井さんが編集しているメルマガ「早稲田古本村通信」に「バイバイ、レンゲ畑」を書きました。メルマガを読んでいない方のために、こちらにも転載いたします。
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「バイバイ、レンゲ畑」
十代の終わりのころ、「ロッキー・ホラー・ショー」というイギリスのミュージカル映画にはまったことがある。劇中の役者の服装を真似、同じように歌い踊り、台詞に突っ込みを入れながら観る、というはじめて知った参加型映画に驚き、「ぴあ」の片隅に載る情報を頼りにいくどか通った。通ううちに知り合いが出来、ファンクラブに入り、もぎりや看板持ちなど、簡単な仕事を手伝うようになった。封切りから十年以上経ち、それでもファンの手で繰り返し上映される映画は、新作映画が公開される大きく新しい劇場とは違い、たいてい小さく古く、ときには小さなスクリーンのある飲み屋での上映もあった。そうした場所のひとつが、浅草六区にあった常盤座だった。
浅草六区には常盤座と同じ、明治大正期に建てられた劇場がいくつか残り、映画や演劇、大衆娯楽でにぎわったかつての六区の匂いを、まだ少しだけ残していた。古い建物が好きだったわたしは、上映の手伝いという名目で、昔の劇場のなかを自由に見て歩けるのが嬉しく、一階二階の客席から天井桟敷、銀色に波打つ常盤座の屋根の上まで見てまわった。常盤座と六区のいくつかの劇場の、保存か取り壊しかが、話題になっているころだった。常盤座も、古い劇場が並ぶ六区の街並みも好きだったわたしは、保存運動の署名に名を連ねたが、1991年に劇場は閉鎖、その後取り壊された。
雑司ヶ谷鬼子母神堂の入り口、関洋品店の向かいは、以前は塀瓦に囲まれた大きなお屋敷だった。瓦屋根ののる二階建ての日本家屋、池や茶室まである広い庭園、そのまわりをぐるっと真っ白な塀が取り囲み、参道に向かって立派な門まであった。都電の鬼子母神前停留所を降り、参道のけやき並木を抜けて鬼子母神堂に向かうとき、右手に真っ白な塀瓦に囲まれたお屋敷、左手に古い木造の関洋品店、の並びはとても絵になり、古い寺町を思わせる、ちょっとした観光地のようで、わたしはこの景色がとても好きだった。大きな屋敷がなくなるとき、保存の署名運動もおこったが、いまではけやき並木の先をふさぐように、マンションが建てられている。
通っていた幼稚園は駐車場に替わり、小学校はマンションに替わり、生まれ育った町から馴染みの景色が消え、遊びに行く町の気に入った景色も消え、いくどかした署名運動で建物が保存されたことは一度もなく、いっそ何かをした気にさせるガス抜きにしかならないのでは、と思いはじめたころ、わたしは、消えていく景色とわたしの気持ちとの折り合いのつけ方、を考えるようになった。
大島弓子の漫画「四月怪談」を読んだのはそのころだ。主人公・国下初子は登校途中事故にあい、あの世とこの世の間を中途半端に漂う霊のような存在となり、もうひとりの主人公・岩井弦之丞は、百年ものあいだあたりが移り変わるのを見ながら、中途半端に漂う霊たちに、早く肉体に戻るよう生き返るようすすめている。ひとから姿が見えず、どこにでも行くことができる自由さで、なかなか生き返らない国下初子が、子どものころから好きだった、大きくなったから子どもみたいに田んぼのなかにはいれないものと遠慮してた、レンゲ畑に行こう、と岩井弦之丞を誘う。
ふたりが着いた先は、団地用地、と書かれた建設会社の看板がぽつんと立つ、更地だった。
立ち尽くす初子に、弦之丞は言う。
「キミの住んでる街の駅ふきんはさ
ボクが生きているころ 
それはきれいな小川のある森だったんだよ
ボクらそこであそんだんだ
でもさそれを知っているボクが
今の駅ビルや自転車置場を見ると少しせつなくなるけど
キミらにとっては生まれたときからあそこにある駅ビルや自転車置場が
やっぱりいとおしいものになってるんじゃないかい?
ねえ事を逆にして考えてごらん
今急に駅ふきんが野っぱらになったとしたら
きっとキミはなき自転車置場をいたむよね」
好きだった景色が消えた街を歩くとき、わたしはこの言葉を杖にした。わたしが好きだった常盤座も、六区も、大きな屋敷も、幼稚園も、小学校も、同潤会アパートも、銭湯も、もしかしたら誰かのレンゲ畑だったのかもしれない。
2013年3月31日、銀座三越歌舞伎座の間、三原橋地下街にある映画館、銀座シネパトスが閉館した。銀座唯一の名画座として、閉館を惜しむ声があふれたが、老朽化、耐震性の問題など、三原橋地下街の取り壊しに伴い、閉館が決まった。銀座シネパトスも、シネパトスの入る三原橋地下街も、銀座を歩いているとふいに現れる、一昔前の繁華街を感じさせる場所だった。銀座の晴海通りというハレの場の下に、定食屋、飲み屋、床屋や劇場が並ぶ様子は愉快で気に入っていたが、思えばこの場所も、戦後の瓦礫処理のため、銀座にいくつかあった川や運河を埋め立てたあとに出来た場所だ。
わたしは休みの日、缶ビール片手に歩く代々木公園をとても気に入っている。ブロッコリーのように盛りあがる木々も、寝転がれる芝生も、花見の出来る桜並木も、演劇の稽古や楽器の練習をする人たちも、缶ビールや缶チューハイはてはワインのボトルや軽食まで買える売店も気に入っている。しかしこの場所も、陸軍の練兵場、米兵宿舎が並ぶ米軍施設、オリンピックの選手村を経て出来上がった公園だ。
2020年のオリンピック開催地が東京に決まったとき、1964年の東京オリンピックで街から消えたものを思い出し、開催を喜ぶよりも、これから消えていくであろう景色に気持ちが動いたが、考えてみれば、1971年生まれのわたしが見てきた東京は、敗戦後の、64年のオリンピックで造られた東京ではなかったか。
レンゲ畑と自転車置場が繰り返される景色のなか、誰かのレンゲ畑を杖にして歩くことを覚えながら、それでもわたしは、目の前から消えていく自転車置場が悲しくてしかたがない。わたしは、わたしが生まれたときからそこにある駅ビルや自転車置場が、わたしが生まれる前に消えていった小川やレンゲ畑よりもいとおしいのだ。
けやき並木の先の、大きな屋敷跡に建ったマンションを見るたび、味気ない、前のほうがよかった、といまさらの愚痴をこぼし続けたわたしに、でも、と雑司ヶ谷に古くから住む知人が言った。でもあのマンション、クリスマスが近づくと窓に小さなツリーが飾られるの、あの明かり見るの、あたしけっこう好きなんだよね。
わたしの自転車置場しか許さない傲慢な目には、正面の窓にうつるツリーの明かりさえ、次の誰かのレンゲ畑さえ、見えていなかった。