断片日記

断片と告知

タイムマシン

4月の中旬に秋田へ、5月の連休に長野の山へ行った。東京ではとっくに散ったソメイヨシノが、秋田では咲きはじめ、長野の山ではちょうど散るころだった。
秋田ではよくツクシを見かけた。道路や駐車場の脇にこれでもかと生えていたが、採る人は見かけなかった。秋田の友人に聞くと、ツクシは食べたことがないと言う。きんぴらにしたツクシを食べさせると、ちゃんと山菜の味がする、なんで食べないんだろう、と首をかしげる
山菜は食べるまでに手がかかる。ツクシはハカマをとるのが面倒くさい。ハカマから出た灰汁で指先が黒く染まるのも厄介だ。袋いっぱい採ってきても、きんぴらにすればげんこつひとつ分にしかならないし、手間の割りにたいしてうまいものでもない。それなのに、ふとしたときに、無性に舌が懐かしむのだ。
朝飯を食べた市場でも、やはりツクシは見かけなかった。フキノトウ、たらの芽、行者にんにく、しどけなど、春の味は並んでいたのに。タクシーの運転手に聞くと、やはり秋田ではツクシは食べないと言う。秋田は春が短いから、短い間にぶわっと一度に芽吹くから、ツクシにまで手が回らないのだと言う。久保田城の石垣が残る千秋公園を歩くと、足元にはフキノトウやツクシ、頭上を散りかけの梅、満開のこぶし、咲きはじめの桜が覆う。東京では同じ時期に見ることのない花がいっせいに芽吹いてる。秋田と東京では春の長さも違うのだ。
長野の山では山菜採りを楽しんだ。長靴と軍手を借り、山菜採りが大好きだという友人の父親と友人と共に山へ入った。数メートルずつ距離をあけ、藪のなかを歩いていく。コシアブラの木は白いから、と教えられてもどの木も同じように見える。3メートル前方にたらの芽、と教えられても、藪のなかをただ目が泳ぐ。
数十分も経ったころ、ふと目が藪に慣れているのに気づく。コシアブラ、たらの芽、わらび、ツクシを目で捕まえられるようになる。山菜専門のターミーネーターの目みたいに。山菜を採りながらゆっくり歩いていても、藪の斜面を歩き続けると息がきれる。枝や棘がなく平らなだけで、舗装もされていない林道に出るとほっとする。道は発明だね、と友人が言う。藪のなかを進むことを、藪漕ぎというんだよ、と友人の父親が教えてくれた。
春先に北へ向かうたび、新幹線はタイムマシンのようだと思う。東京で散った桜が咲いていて、戻ってくると北では赤ちゃんのように小さく薄かった新緑が、東京では青年のように濃くたくましく茂っている。春と初夏を行ったり来たり。春先に乗る新幹線を、わたしはとても気に入っている。