断片日記

断片と告知

マヨヒガ

小田急線で小田原の少し手前まで。同じ電車で来たSと、すでに改札の外で待っていた隊員たちと、さらに遅れてきたUと、今日は神奈川の山と川沿いを歩く。カレンダーの裏紙に描かれた地図を頼りに川を越えて山へと向かう。昼飯の食材が入った20キロ弱の背負子を、男は10分、女は5分、じゃんけんで負けた順に背負いながら。背負子に挿された隊の名札、酒匂川の土手から富士山、土手沿いにまばらに生えたつくし、ロマンスカー号のロンちゃんの展示、富士フィルムの大きな工場、狩川の土手にはつぼみがふくらみはじめた春めき桜が並び、さっきより少し近づいた富士山の真っ白な先っぽだけ山の峰からのぞいている。
平らだった地面が斜面になるにつれ、民家が減り、みかん畑と茶畑の景色が増えていく。寺の山門でカレンダーの地図を描いてくださったNさんKさんと犬のシロとはじめまして。日光を思わせる杉林の参道を抜けてお寺の奥の墓地へいく。酒が好きだったという故人の墓前にはエビスの缶ビールが二本。今日は寒いからとNさんが持ってきた燗した日本酒。墓のうえからまず日本酒をそそぎ、続いてビールもそそぐ。寒いじゃない、逆にしたらよかったのにと笑いながら。
Kさんの運転するトラックに乗せてもらい山の中腹のふたりの家まで。家のまえにきれいに積まれた薪と薪割り道具。玄関すぐの薪ストーブが山の斜面に建てられた家を暖める。一冊だけないという故人の著書が年代順に並んだ本棚。母の家には全部あるのだけれど。この辺りが一番油がのっていたころ。男の読者が多かった。この辺は男の読者が離れて女の読者が増えたころ。Nさんが本棚の真ん中以前と終わりのころを指差し話す。井伏鱒二阪田寛夫、Nさん、故人と並ぶ白黒写真。使い込んだ百人一首の箱、Oさん自作の夕日柄のCDが本棚を飾る。
Nさんが今朝炊いたという赤飯のおにぎり、けんちん汁。背負子のなかのポテトサラダ、ナムル、鶏の唐揚げ、カマンベールチーズにパン。Nさんちのベランダにカセットコンロを出して作った中華風おこげのあんかけと焼きそば。エビスの缶ビールに赤ワイン。ベランダの先にさんしゅゆの黄色い花が咲いている。
庭の斜面の大木に長いブランコがひとつ。ブランコのしたには明るい緑の苔がびっしり。踏むのをためらいつつブランコに腰掛け、背中を押される。眼下の町が見えたり消えたり、消えたり見えたり。元鶏小屋だった場所にいまは薪が積んである。最後に飼っていた黒チャボは去年イタチに殺された。
Kさんに薪割りを教わる。腕の力をなるべく使わず、振りかぶった斧の重さで薪を割る。狙った場所から目を離すな。振りかぶった斧を木に当てるまでが一苦労。薪の大きさになるまで割り続けるので二苦労。何度かに一度、斧の一線がいい目に入ると、ずっしり重い固い木が、絵本で見た桃太郎の桃のようにぱかっと割れる。
ふたりの山の家を後にする。Nさんと犬のシロが途中まで送ってくださる。散歩の夫婦とNさんがすれ違いざま言葉を交わす。故人の小説にあこがれて、夫婦はこの山に越してきた。そうした人たちがここに何組かいるという。子どもたちの3.5キロの通学路、いまは使われていないプール、放し飼いの犬たちがたびたび脱走する家、駅までの上りが朝の1本しかないバス停、お父さんが東大でお母さんが東女で息子さんが京大の家。そんな家なかなかないわよね。お父さんが芥川賞作家の家のほうがないですよ。ほんとだね。
翌朝、布団のなかで聞く雨の音。薄暗い部屋のなか、昨日の世界がこの世のものとは思われない。
明るすぎる家はまぶしくて、お膳にごちそうは並んでいるのに目をつぶると誰もいない。狩川の上流から赤いお椀が流れてくる。