断片日記

断片と告知

わたしの、まえのひを再訪する

「彼は、人生が一回しかなくて、すべてが過ぎ去っていくことが許せないんですよ。私も許せない。つまり、いつか全員が消えてしまって、この世のすべてが終わってしまうということが本当に理解できない。」
これは、『まえのひを再訪する』に抜粋されていた、川上未映子さんと藤田貴大さんの対談の、藤田さんの作品に向けた川上さんのことばだ。
京都での個展「沼日」で発表した絵を次に出す本の装画に使いたいと言われたのは、個展2日目の夜だった。個展に合わせて京都に遊びに来てくれた宮本くん、橋本くん、瀬戸さんとわたしの4人で、歩きながら見つけた「よしみ」という居酒屋で飲んでいたときだった。お通しの豆腐と、はものしゃぶしゃぶ、しめの雑炊のうまい、気楽に京都らしさを味わえるいい店だったが、飲みすぎだったか寝不足だったかで、橋本くんひとりほとんど飲み食いせず、青白い顔をして座っていた。個展で飾っていた絵を2枚、表紙と裏表紙に使いたいと、たしかそのとき隣りに座る青白い顔に言われたのだ。
橋本くんの次に出す本、『まえのひを再訪する』は、2014年に上演された劇団マームとジプシーの公演「まえのひ」を追いかけ同行した7都市を、翌2015年にひとりで再訪し、また今年2016年に再び再訪し、書かれたものだ。「まえのひ」の舞台をつくるひとたちと訪れた町、食べたもの、そこでの会話や見たもの、舞台をつくるひとたちからこぼれた、本来ならその場で消えてしまうはずだった景色が書かれている。自分が見たものはなんだったのか、橋本くんは2014年から2016年の景色のあいだを行ったりきたりしながら考えている。
東日本大震災をきっかけに書かれた川上未映子さんの詩「まえのひ」がところどころ引用されている。


今日は
まえのひなのかもしれない
すべての人は、まえのひにいるのかもしれない


『まえのひを再訪する』を読んでいるあいだいくども、わたしは携帯電話が鳴ったあの日に引きずり戻された。
昨年の11月に携帯電話が鳴った。電話に表示された名前は短大時代の友人で、卒業後もたまに会って飲んでいた4人組のひとりのものだった。
「落ち着いて聞いてね。Jちゃんが亡くなったんだ。」
4人組のうちのひとりが亡くなったと告げる電話だった。子宮頸がん。数年前から闘病していたことを知らなかった。最後に会ったのはいつだったか、思い出すことができなかった。
知人に頼まれていた仕事を終え、夜、知人を誘って副都心線に乗り新宿三丁目に行った。コンビニで赤ワインのボトルを買い飲みながら、靖国通りを曙橋へ向かって歩いた。ここは昔モスバーガーがあったところ。ここは昔厚生年金会館があったところ。いまはなくなった景色を数えながら、セツ・モードセミナーへ続くかつてのわたしの通学路をたどった。
短大を卒業したあと、絵を描き足らなかったわたしはセツへ、Jちゃんは美術系の専門学校へ進んだ。Jちゃんの通った専門学校はセツからそう遠くもない、靖国通りをはさんだ反対側にあった。セツに通ったハタチから25まで、曙橋周辺をあれだけうろうろしていたにも関わらず、わたしはJちゃんの学校を訪ねたことも、Jちゃんと曙橋で遊んだこともなかった。電話が鳴った日、わたしはどうしても、Jちゃんの学校とわたしのセツを見てみたかった。
靖国通りから少し入った坂のうえに、Jちゃんの学校はあった。門に貼られた案内図を見ると、校舎がいくつもある大きな学校で、そのなかのどこにJちゃんが通っていたのかわからなかった。Jちゃんはこのころ横尾忠則さんや伊藤桂司さんに影響を受けた絵を描いていた。原色の強い色で、UFOやジャングルが入りまじる不思議な具象を大きなキャンバスに描いていた。
靖国通りを渡ってフレッシュネスバーガーの角を曲がり、少し行って見上げると坂の途中にセツがある。Jちゃんの学校と歩いて10分も離れていない。わたしが水彩画を描いていたあのころのままのセツと、少し変わってしまったセツを見上げる。
短大を卒業してすぐのころは4人でまめに会っていた。住んでいる場所がばらばらだったから、飲むときはみんなが集まりやすい新宿だった。新宿三丁目の雑居ビルの地下にあった居酒屋が、そのころの4人のお気に入りだった。Jちゃんはエビが好きで、その居酒屋には店独自のエビチリのようなつまみがあり、行くと必ず頼んでいた。酒よりも飯だったそのころは、そのエビチリの辛いソースで白飯をまず食べるのが好きだった。エビっておいしいよねー。どんな店に行っても必ずエビを頼むJちゃんが可笑しかった。
Jちゃんは、桜木町にあったジェラード屋でバイトしていたが、いつの間にかカメラマンになって、結婚式場での撮影や編集の仕事をしていた。こないだはどこそこの結婚式場に行ってきた、素敵だった、と、会うと嬉しそうに話してくれた。ジュンスカが好きだった。濱マイクが好きだった。マリーという名前の白いヒマラヤンを飼っていた。UFOや精神世界やセラピーや占いが好きだった。そうしたものに傾く弱さと、そうしたものを人にはすすめてこない強さがあった。歩いていると、そんなJちゃんがぽろぽろ出てくる。
『まえのひを再訪する』を読んでいると、あのじっとしていられなかった日に引き戻される。どうして行ったこともないJちゃんの学校を、卒業してから訪れたことのないセツを見てみたかったのか。わからないから、歩くことしかできなかったあの日に引き戻される。
「彼は、人生が一回しかなくて、すべてが過ぎ去っていくことが許せないんですよ。」

世界は
まえのひで
埋め尽くされていて
森は、ふくらんで
崖は、大きくなる
どうすれば、それを、とめることが、できるのだろう
世界から
すべてのまえのひを、なくすことができるのだろう

『まえのひを再訪する』
著・橋本倫史 発行・HB編集部
四六判 210頁 2016年7月1日発行
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