マンションの一階の真ん中に、手製の富士山柄がアップリケされた暖簾がさがる。暖簾をはらうと、縫い合わされた布の厚みで手が重い。階段数段おりて半地下の入り口へ。手前左手に傘入れ、自動ドアの引き戸、入ると左手に下足箱、フロントがあり、右手に小さなロビーがある。文京区の銭湯の催しの日らしく、入浴料460円を払うと、どうぞー、とこの銭湯「白山浴場」の名と外観のイラストが入ったタオルをもらう。
正面左手が女湯の入り口。壁沿いにロッカーと洗面台が並ぶ小さな脱衣所。催しの日だからか、下足箱はほぼ埋まり、脱衣所のロッカーも空きを探すのにしばらくかかる。こじんまりした脱衣所だが天井はそこそこ高く、フロントに面した壁の天井近くに、大きな書の横断幕のような作品が飾られている。
洗い場。右手に立ちシャワーのブースがふたつ、丁寧に入り口にシャワーカーテンがぶら下がる。壁の両脇にカラン、真ん中に島カランが一列。湯船は正面左手から、浅めぬるめの薬湯、深めの泡風呂、左手に座ジェットのあるほどよい深さ、の三つ。正面の壁にはよれよれの長方形のモザイクタイルのような物体で、孔雀の羽の模様が一面に描かれている。最近の銭湯にはめずらしく、若い母親と小さな子どもたちが何組か、ぬるめの薬湯とカランの前とを行ったり来たりで賑やかだ。
ロビーで汗がひくのを待つつもりが、テレビの前に置かれたふたり掛けソファは満席で、テレビの横に置かれた小さな冷蔵庫に缶ビールも見当たらない。居場所もないのでフロントで銭湯遍路の判子をもらう。ここは古いんですか、と聞くと、古いですよ、わたしが子どものころにはすでにあったので、50年か60年か、とまだ年若い彼女が言う。男湯も孔雀の羽なんですか、とさらに聞くと、わたし、あんまり、と語尾を濁しながら笑ったままの目が逃げる。
少しの風ではびくともしない重い暖簾をまたくぐる。暖簾の裏面は洗い場と似た孔雀の羽のアップリケで、はじに小さく「白山浴場」とオレンジ色で描かれている。そういえば表のどこにも銭湯の表記もなにもなかった。ただ道にうっすら焚き火のような匂いが漂い、マンションの裏手に四角い白い煙突が見え、桶をもった人たちが暖簾の先に吸い込まれていく後ろを追った。
東大横の弥生美術館で滝田ゆうを観た帰りだ。観たあとすぐに帰る気にもなれず、絵のなかの男のように町をぶらつき、ついでに銭湯に入りたかった。銭湯から一本先の大通りに出ると、共同印刷の赤いネオンが明かりの少ない町の空に浮かぶ。セブンイレブンで缶ビールを買い、桜が咲きはじめた播磨坂を飲みながらのぼる。
家を出るとき降っていた雪は、日が暮れたいま小雨に変わった。坂の途中、満開に近い一枝のしたで、立ち止まってビールを飲む。同じように植えられた桜並木でも、花の開きかたが違うのはどうしてだろう。さてこれからどうするか。坂をのぼって茗荷谷から丸の内線で帰ろうか。それともここからそう遠くない場所に引越した友人を飲みに誘おうか。
数年前に読んだ、林哲夫さんのブログに引用されていた、写真集『われ、決起せず』の写真家のことばがいまでもときどき頭をめぐる。
「全国に13ヶ所あるハンセン病国立療養所も、高齢化した入所者が次々と世を去っていくにつれ、あと10年乃至20年のうちにすべて消滅する。らい予防法が廃止された現在にあって、『絶対隔離・絶対断種』の時代は過去のものとなり、いま撮影したところで、見るからに苛酷な生活実態は写ろうはずがない。それでも、この世から消滅する直前にある療養所の静寂が支配する空気感は、それはそれで撮り残しておく必要があるのではないか。記録されなかったことは、いづれ、無かったことになる。」
東京大空襲で跡形も無く焼けた町・玉の井を、クソババアとまで書く厳しかった育ての母を、滝田ゆうは漫画のなかによみがえらせた。たぐいまれな記憶で描かれた幼い少年の眼から見えていた町と人々は、忘れられない日々として漫画に残されたが、あれが記録かと言われればどこか違う。
わたしが写真に撮れない銭湯のなかを覚えで書き残すのも、記録かと言われればやはり違う。ただ、わたしが見聞きしたものがいづれ、無かったことになる前に、滝田ゆうにははるかに及ばないまでも、留めておけない断片をつなげて書いて残しておきたい。
今日は2018年3月21日祝日で、桜が咲きはじめたのに雪が降り、滝田ゆうの展示を見て「白山浴場」に行きました。そして小雨の播磨坂で缶ビールを飲みながら、ひとりで桜を見上げました。
白山浴場:〒112-0001文京区白山2−7−1