断片日記

日々の断片と告知

誰も知らない

廃業すると教えてもらった銭湯へ行く。山手線で秋葉原まで、総武線に乗り換えて小岩でおりる。駅前や道の先に見覚えがある。ここは、ブックカフェをやっていた友人と、開業前に打ち合せと言いながら飲み歩いた町のひとつだ。駅前からあの路地を入った先の二階で飲んだ。酒の強い人だった。ブックカフェはすぐにつぶれて、友人も数年前に肺がんで亡くなった。

見覚えのある路地に引きづられて道に迷った。総武線の高架下を抜け、路地をいくつか曲がると、白くて四角い煙突が見えた。煙突のある白くて大きな建物は、1階の路面に飲み屋やカラオケ屋が並んでいる。上はマンションのようで洗濯ものが干されたベランダが見える。建物の中ほどに、「健遊館 大黒湯」と書かれた大きな看板がかかり、その下に開いた広い通路を抜けると中ほど左手に銭湯「大黒湯」の入り口がある。「大黒湯」の向かいはスナックで、カラオケの音が通路に大きく漏れ響いている。

牛乳石鹸ののれんをくぐる。正面が古い傘入れ、両脇が下足箱。女湯は右手。脱衣所の入り口引き戸に、「本日営業最終日 感謝の気持ちを込めて入浴料無料 ご愛浴いただきありがとうございました 大黒湯」の紙が貼られている。

引き戸を開けると左手に番台。いらっしゃい、の声とともに、今日は無料でどうぞ、の声が続く。

ナンダロウさんとのトークショーで、廃業すると知ってから訪ねるのは下品だよ、だからといって行かなければ一生見られなくなるし、と話題に出たが、ずっとどうしていいのかわからない。入浴料が無料ならなおさらだ。常連らしき老女たちがひっきりなしにやってくる。今日はタダよー、えー悪いわよー、いいのいいの、の声を背中に浴びながら服を脱ぐ。

こじんまりした脱衣所は、左手に鏡と体重計、右手にロッカー、ロッカーの前に置かれたハイテクマッサージチェア、真ん中にローテーブルと椅子がぱらぱら。マッサージチェアはかなり大きく、着替える老女たちに邪魔にされ、背もたれをくるりくるりと回されている。

洗い場に入る。右手と左手の壁に立ちシャワーが一台ずつ。島カランが真ん中に一列と左右の壁沿いにもカラン。左手と島には固定式のシャワー、右手のカランだけホース付きのシャワーが並ぶ。湯船は正面奥の壁に右から、普通、座ジェット、深め、の三つ。三つとも茶色の薬湯で、真ん中の座ジェットのある湯船にだけ、茶葉のようなものがたっぷり入った袋状のものが浮いている。湯船の温度計は44度と熱めの表示だが、入ってみるとそうでもない。湯船の上の壁には、小さなタイルのモザイク画で、遠くに雪をかぶった青い山並みと、手前にヨットが浮かぶ湖、右手に欧風の大きな城が描かれている。天井と壁は真っ白、湯船のタイルは青系だ。

 洗い場で体を拭いてから、脱衣所に出る。風呂上がりはいつも体重計に乗る。ここ数年は50キロ台後半をうろうろしている。次の健康診断までにあと2〜3キロ落としたいと思いながら、日々の安い酒とつまみをやめられない。

脱衣所のテーブル周りの椅子に腰掛け、湯上がりの老女たちがおしゃべりしている。

ここも今日でおしまい。

あなたとはまた会うわね。

だって近所じゃない。

長いことお世話になったわねぇ。

ありがとね。

その間も番台から、今日は無料だから、いいのよぉ、の声が響く。

みんなお互いの顔を見ている。

この場所で、のれんや、かわいらしいタイル絵や、青い湯船や、高くて白い天井や、大きすぎるマッサージチェアや、缶ビールの売っていない小さな冷蔵庫を、きょろきょろ見ているのはわたしだけだ。ここにいる誰の顔も知らないわたしだけだった。

 

大黒湯:江戸川区南小岩6-29-15

2019年6月29日廃業