断片日記

断片と告知

人生、いい事ばかりはありゃしない

高知から堀内恭さんが発行する入谷コピー文庫が届きました。今号の特集は、大滝秀治人間劇場シリーズ第6回「人生、いい事ばかりはありゃしない」です。装画は山川直人さん、執筆者は、林哲夫さん、鴻野審さん、長田衛さん、廣谷ゆかりさん、とわたしです。わたしは「お湯と白バイ」という文章を寄せました。こちらに転載いたします。

 

「お湯と白バイ」

 武田百合子の単行本未収録エッセイ集『あの頃』のなかに、「お湯」という短いエッセイが出てくる。夫・武田泰淳が亡くなったあと、一日中お湯に浸かっていた日々を書いたものだ。

 「朝浸る。昼浸る。夕方浸る。夜と夜中に浸る。今日、お悔やみの電話をかけてくれた親切な誰彼のことを、その人が男であれば(丈夫だなあ。何故死なないのだろう)と、女であれば、(あの人のつれあいだって、いまに死ぬぞ)と、湯船の中で思ったりなどもする。」

あれは『あの頃』を読みはじめ、気に入った「お湯」になんどか戻り、読みなおしていたころだった。

2月の頭に控えた展示のために、その日も絵を描いていた。外が暗くなるまで描いてから絵の道具を片付け、家の近くの古本屋にいつものように顔を出した。

1月13日は成人の日で月曜日。古本屋は月曜日は夕方6時までの早仕舞いなので、すでに外の均一台は仕舞われ、入り口のガラス戸から暗くなった明治通りに明かりがもれている。いつものようにガラス戸を開けて入ると、いつもと違って店の中の二人が重い。

もう誰かから聞いた? Tさん、亡くなったって。と、帳場の顔がわたしに告げた。

一昨年だったか、古本屋の友人に誘われ、はじめて五反田の古書会館で催事のアルバイトをした。催事は二日間の開催で、その二日目にTさんはやって来た。一緒に帳場に入っていた月の輪書林さんが話しかけ、しばらく雑談していたが、あ、知ってる?これ武藤さん、と横にいたわたしをTさんとの輪に入れた。

その瞬間、Tさんは、下向きの合わない目線でこちらを一瞥し、苦手な人とは話さないことにしているんで、と言い捨てぱっと帳場から離れていった。

Tさんが見えなくなってから、なにかあったの?と月の輪さんが困った顔でわたしを見る。

だいぶ前、たぶん、酔っぱらってからんでいます、と情けなくなく答える。

だいぶ前を調べてみると、2008年の高円寺だ。コクテイルでおこなわれていた出版記念パーティに古本屋の仲間たちと乗り込み、入りきれないやつらが店の前の路上で飲みはじめ、そこにTさんもいた。薄いピンク色のセーターを着て、酒を片手に静かにひとりで立っていた。古本屋仲間に紹介され、そこでなにか話したはずだが覚えていない。覚えていないが、飲んで調子にのったわたしが、騒ぐか絡むかしたに違いない。

やったほうは覚えていないんですよね、やられたほうは忘れないけど。言い訳をこぼしていると、月の輪さんが笑って言い切った。武藤さんは、悪くないよ。

 「とうとう、うちのお風呂だけでは物足りなくなり、電話帳を繰っては、渋谷、目黒、麻布、巣鴨と、料金の安いサウナを、せっせと試し回った末、東京駅構内の地下にあるサウナ浴場が気に入った。」

Tさんの訃報は古本屋で聞いた翌日流れた。わたしは会う人ごとに、どこでTさんの訃報を知ったかを聞いていった。

大阪にトークショーを聞きにいってるときに連絡が来て、トークを聞いてる場合じゃないんだけど、ボトルでワインを頼んじゃってて。

前橋の文学館で萩原恭次郎の展示を見ていたら携帯電話に着信があってね。知らない番号だから出なかったんだけど、留守電が入っていて。Tさんのことで至急ご連絡したいことがありますって。

店に入ってくるなり、聞いた? Tさん亡くなったって、って大声で。他にお客さんもいるのに。それってどうかと思って。まだ公になってもいないのに。

たいてい知り合いの編集者からメールや電話で連絡がいき、受け取る側は日常にいた。その日常を聞き集めると、なぜだか気持ちが落ち着いた。

「お昼前にやってくるのは、大方が水商売のおねえさんたちだった。」

「昨日易者にいわれた男運について、きっと買わずにはおかぬ四十万円のワニハンドバッグについて、お互いにつっけんどんな調子で、しかものんびりとしゃべっている。」

あれから五反田の古書会館で、催事のアルバイトをなんどかした。Tさんは決まって二日目に現われた。月の輪さんや馴染みの古書店主たちと話す姿を眼の端に入れ、近づかなかった。この世を雑に浮かれて走っていると眼の端に入る、白バイみたいな人だった。その白バイがあっけなく、この世の端から消えてしまった。

「未亡人になりたての、六年前のあのひと頃は、体力がおちた分だけ、気分をやたらと昂揚させて暮らしていたのだと思う。昂揚しっ放しだった。一足ちがいでバスに乗り遅れると、次の山王下バス停まで、洗面道具をふりたくり、髪をふり乱して追い駈け、追いついて乗った。知人や友人にねんごろにいたわられると鬱陶しく、あたりかまわぬ気迫に充ちたおねえさんたちに混っていると心地よかった。」

 「お湯」はここでぱちんと終わる。