断片日記

断片と告知

小さな駅・心の駅

堀内恭さんが発行する冊子、入谷コピー文庫「ある塵シリーズ第14回 小さな駅・心の駅」が届きました。執筆者は、宮井京子、堀治喜、武藤良子山川直人、尾崎正浩、大国美奈子、保光敏将、赤穂貴志、塩山芳明。わたしは学生時代の記憶「わたしの駅」という文章を寄せました。少しだけ訂正してブログに転載いたします。

 

「わたしの駅」

絵の学校で知り合ったマホちゃんは、そのころまだ十代だったが、見た目も中身もだいぶ世慣れていて、彼女が登録していた人材派遣会社で人手が足りなくなれば、絵の学校の仲間たちを誘い、現場に斡旋するようなことをしていた。人材派遣といってもマホちゃんが紹介してくるのは、デスクワークやスーツを着るような仕事ではなく、まともな靴も服も持たない学生でもできるような、少し変わった仕事が多かった。

 東急ハンズが開催していたハンズ大賞の、応募作品に手を触れないよう一日中会場で見張っている係、などはましな仕事で、マホちゃんに連れて行かれた、いまでも忘れられない派遣先がふたつある。

 知り合いで、髪を染めてなくて、ピアスの穴もあいてないのは、りょーちゃんだけなんだよ、お願い。そう言われて連れて行かれたのは、ピザーラの本社かなにかで、赤だか青だかの派手な制服に着替えさせられ、まっすぐ立って、と言われながらビデオカメラで撮られた映像は、ピザーラがアルバイトで採用した人たちに見せる教育用ビデオだ。あなたの足が長いからかな、なんか変なんだよな、と、人の体のバランスにケチをつけられながら、逃げ出すこともできなかったあの日の日当はいくらだったか。髪の色もピアスの穴も気にしてどうなるのかといまなら思うが、30年近く前のあのころは、そのささいなことが当たり前の顔をしてのさばっていた。さすがにいまでは使われていないだろうが、90年代頭にピザーラでアルバイトをしていた人たちは、困った顔をしてカメラをにらむわたしの顔を見ているはずだ。

 なにかのキャンペーンだと言われて呼び出されたのはJR御茶ノ水駅の改札前で、こんどは絵の学校の仲間たちも知らない顔も合わせて十数人くらいだったか、着替えさせられ手に鉄ヘラを持たされ、御茶ノ水駅の改札内に連れて行かれた。時間は朝と夕のラッシュをのぞいた昼間の数時間。ホームに散らばされ、ホームの床に点々とへばりつく、ほこりを吸い踏みつけられて固くなった誰かの吐いたガムのカスを、その鉄ヘラではがせと言われた。ガムのポイ捨て防止のキャンペーン。ふだん気にして見ることもないが、言われてみれば、ゆがんだ黒い丸が点々と、ホームを水玉模様に染めている。

 恐る恐るホームにしゃがみ、鉄ヘラをカスにあてる。ぺりっと丸のままきれいにはがれるときもあれば、鉄板焼きの焦げカスのように細かく削れていくときもある。まだ吐いて間もない白いガムは、暗い床から鉄ヘラまで細く長い糸を引く。取れたカスははめていた軍手で鉄ヘラからはがし、腰にぶら下げたゴミ袋に入れていく。本体を失い削れた白い輪郭が、次第にホームに増えていく。

 いつの間にか、ケツをどかっとホームにつけて体育座りをしている。正座をしたまま体を折り、なかなか取れないカスにこれでもかと顔を近づけている。ホームに座り込んだわたしの目に入るのは、乗り降りする人たちの腰から下、自販機の下の吹きだまり、線路の焼けた石に混ざった煙草の吸い殻、ホームに沿って流れる茶色い水の神田川、そしてホームのガムの黒い点々。疲れて目を少しあげると、スーツを着て上から見おろすだけのガム会社と派遣会社の人たち。汚いことにはすぐに慣れた。人の目も気にならなくなった。這いつくばったホームから見る景色は、思ったよりも自分に近く、嫌いじゃなかった。二足歩行で過ぎて行く人間たちよりも、四足歩行のわたしのほうが、もっときれいな生き物だった。あの日、御茶ノ水駅を毎日使う誰よりも、わたしはずっとこの駅だった。

 御茶ノ水に行くときは、池袋から地下鉄丸ノ内線に乗るので、JRの御茶ノ水駅を使うことはめったにない。丸ノ内線御茶ノ水駅を降り、地上にあがってお茶の水橋を渡る。橋の上から、神田川と改装中のJR御茶ノ水駅のホームが見える。30年分退化した、二足歩行のわたしが、あの日のホームを見おろしている。マホちゃんとは絵の学校を出てから会っていない。