断片日記

断片と告知

老いるれろ 入谷コピー文庫

高知から「入谷コピー文庫 新刊異論・反論・与論島シリーズ『お老化』」が届きました。新刊異論・反論・与論島シリーズの最終回です。編集は、堀内恭さん。最終回の寄稿者は、内海準二、林哲夫、鴻野審、津島滋人、武藤良子塩山芳明山川直人、宮本貢、尾崎正浩、はやしゆうき、酔龍亭、田中清行、吉上恭太(敬称略)です。わたしは大好きだった祖母のことを書きました。ブログに転載いたします。

 

「老いるれろ」

わたしが高校生のころ。夕飯の支度をしていた母が、テーブルに飯碗を並べながらこんなことを言った。困っちゃうわよね、おばあちゃんやらかいご飯しか食べられないって言うから、あたしやらかいの好きじゃないのに。おばあちゃんは父の母。わたしが中学のころまで、うちの二階で下宿屋を営んでいた。

一階に祖母、父、母、弟とわたしの五人が暮らし、二階に近くの大学に通う学生たちが暮らしていた。玄関脇の木製の階段をあがると、四畳半の部屋が五つくらいと奥に八畳の部屋がひとつ、共同便所が廊下の真ん中にひとつ、その横に大きな流しがひとつ。賄いはないが、部屋の掃除と、洗いものを紙袋に入れて部屋の外のノブにかけておけば、祖母が洗って干してたたんで返す、掃除洗濯つき、男子学生限定の下宿屋だった。

部屋の鍵はあったはずだが、かけている学生はひとりもいない。洗いものが入った紙袋を回収し、裏の洗濯機で洗い、祖母の部屋のうえにあった大きな物干し台に干す。階段と黒光りしている二階の廊下は、濡らした新聞紙をちぎってまいてほうきではく。開けっ放しの部屋ははたきをかけてから掃除機をかける。家賃は2万円とちょっとだったか。わたしが幼いときには満室だったが、じょじょに空き部屋ができ、やめるころには司法浪人をしていたサカイさんひとり奥の八畳に住んでいた。

わたしが中学のとき家を建て直すことになり、祖母の下宿はそのときたたんだ。することがなくなった祖母は、一年中出しっ放しのこたつで、一日中テレビを見ている。

うちの前の弦巻通りを二分も歩けば明治通りに出る。信号渡ってすぐ向かいのビルの一階には「かどや」という昔ながらのスーパーマーケットがある。誘ったり誘われたりしながら祖母とふたりで「かどや」まで歩く。祖母のお気に入りは、ライオネスコーヒーキャンディとマイルドセブン。重たい粉の洗剤や外に積まれていた四角い便所紙を持つのはわたしの役目。帰り道、祖母と並んで歩きながら、胸に抱えた便所紙がゆらゆらと大きなトコロテンのように揺れている。

ご飯がやらかくなったころ。先に行ってて、あとから行くから、と祖母が言う。どんどんどんどん祖母の歩みが遅くなる。「かどや」がどんどん遠くなる。祖母にとっては「かどや」は橋を渡った川の向こうに。さらには隣りの町に。「かどや」が山の向こうに消えたころ、祖母は「かどや」に行こうと言わなくなった。

「かどや」がつぶれてセブンイレブンになり、店の外にトコロテンは積まれなくなった。マイルドセブンメビウスになった。ライオネスコーヒーキャンディは売ってもいない。祖母も「かどや」も、雲の向こうにいった。