断片日記

断片と告知

新宿

電車に乗りたくない日、そういう日もある。久しぶりに晴れた日、気持ちのいい風が吹いている日、体が歩けと言っている日、そんな日は、素直に歩くことにしている。
明治通りを南へ進み、新宿まで歩く。世界堂で画材を買い、紀伊國屋書店で「〈熱き時代〉の新宿、新宿の〈いま〉」を見る。5階人文書売場のレジの前、その通路の左側のフェア台でやっているそれ。新刊本の中にある、古本。そんなに違和感がないのは、飾り方のせいか、新宿という器のせいか。
新宿と私。
高校を卒業し、そのあと通った短大は中野坂上にあった。短大で仲良くなった友人は、1人は神奈川、1人は千葉、1人は茨城、から通っていた。新宿から路線が分かれ、バラバラに帰っていく友人たち。私を含めたその4人が学校の帰りに遊ぶとなれば、その場所は当然、新宿だった。
短大を卒業し、そのあと通った絵の学校は曙橋にあった。新宿から都営の地下鉄で2つ目の駅。ある時、試しに歩いてみると、意外と近いことが解った。ある日は靖国通りから曙橋へ。ある日は新宿通りから四谷三丁目を経由して曙橋へ。絵の学校に通っていた5年間のほとんどの日、新宿を歩いていた。
絵の学校が休みの日は、アルバイトをしていた。新宿西口の小滝橋通り沿いの小さな本屋。宮沢賢治が好きだという社長さんがつけた店名に惹かれて、そこで働くようになった。品出しも、レジ打ちもしたけれど、1番好きだった仕事は、周りの飲食店や、美容室、中古レコード屋に定期購読の雑誌を配達することだった。週刊誌や月刊誌を抱え、こんにちは、と言ってドアを開け、本を置いてくる。普段入らないようなビル、普段入らないような店、そんな場所に大手を振って入れることがうれしかった。道の向いにチェーンの大型本屋ができ、その小さな本屋が潰れるまでの数年間、新宿西口の隙間を、縫うようにして歩いていた。
小さな本屋が潰れたあと、新宿西口の百貨店で催事のアルバイトをしていた。催事場で、ある日は駅弁を売り、ある日は古本を売り、ある日は青森県の物産を売り、ある日は山下清展の受け付けをしていた。アルバイトでも社食でご飯が食べられることがうれしかった。百貨店の最上階、屋上の横にある社食から、ビルに囲まれた新宿西口の空を見るのが好きだった。
私が西口でアルバイトをしていた頃、高校時代の友人が歌舞伎町に住むことになった。歌舞伎町にある大きな会社に就職し、その会社の上にある寮で、一人暮らしをはじめたからだ。住民票が歌舞伎町だ、と言って笑っていた。遊びに行くと、小さなワンルームの部屋と、その奥にこれまた小さなバルコニー。重い防音ガラスを開け、そのバルコニーに立つと、歌舞伎町の夜景が、ネオンが、バッティングセンターが眼下にあった。こんな場所に住むことなんて、これから先そうそうないに違いない、そう言って笑いあったことを思い出す。
はじめて行きつけの飲み屋が出来たのも、はじめてバーに入ったのも、新宿だった。10代の終わりから20代の終わりまで、新宿を歩いて、新宿で遊んで、新宿で飲んでいた。産みの親は池袋でも、私の育ての親は新宿なのだ。