断片日記

日々の断片と告知

誰も知らない

廃業すると教えてもらった銭湯へ行く。山手線で秋葉原まで、総武線に乗り換えて小岩でおりる。駅前や道の先に見覚えがある。ここは、ブックカフェをやっていた友人と、開業前に打ち合せと言いながら飲み歩いた町のひとつだ。駅前からあの路地を入った先の二階で飲んだ。酒の強い人だった。ブックカフェはすぐにつぶれて、友人も数年前に肺がんで亡くなった。

見覚えのある路地に引きづられて道に迷った。総武線の高架下を抜け、路地をいくつか曲がると、白くて四角い煙突が見えた。煙突のある白くて大きな建物は、1階の路面に飲み屋やカラオケ屋が並んでいる。上はマンションのようで洗濯ものが干されたベランダが見える。建物の中ほどに、「健遊館 大黒湯」と書かれた大きな看板がかかり、その下に開いた広い通路を抜けると中ほど左手に銭湯「大黒湯」の入り口がある。「大黒湯」の向かいはスナックで、カラオケの音が通路に大きく漏れ響いている。

牛乳石鹸ののれんをくぐる。正面が古い傘入れ、両脇が下足箱。女湯は右手。脱衣所の入り口引き戸に、「本日営業最終日 感謝の気持ちを込めて入浴料無料 ご愛浴いただきありがとうございました 大黒湯」の紙が貼られている。

引き戸を開けると左手に番台。いらっしゃい、の声とともに、今日は無料でどうぞ、の声が続く。

ナンダロウさんとのトークショーで、廃業すると知ってから訪ねるのは下品だよ、だからといって行かなければ一生見られなくなるし、と話題に出たが、ずっとどうしていいのかわからない。入浴料が無料ならなおさらだ。常連らしき老女たちがひっきりなしにやってくる。今日はタダよー、えー悪いわよー、いいのいいの、の声を背中に浴びながら服を脱ぐ。

こじんまりした脱衣所は、左手に鏡と体重計、右手にロッカー、ロッカーの前に置かれたハイテクマッサージチェア、真ん中にローテーブルと椅子がぱらぱら。マッサージチェアはかなり大きく、着替える老女たちに邪魔にされ、背もたれをくるりくるりと回されている。

洗い場に入る。右手と左手の壁に立ちシャワーが一台ずつ。島カランが真ん中に一列と左右の壁沿いにもカラン。左手と島には固定式のシャワー、右手のカランだけホース付きのシャワーが並ぶ。湯船は正面奥の壁に右から、普通、座ジェット、深め、の三つ。三つとも茶色の薬湯で、真ん中の座ジェットのある湯船にだけ、茶葉のようなものがたっぷり入った袋状のものが浮いている。湯船の温度計は44度と熱めの表示だが、入ってみるとそうでもない。湯船の上の壁には、小さなタイルのモザイク画で、遠くに雪をかぶった青い山並みと、手前にヨットが浮かぶ湖、右手に欧風の大きな城が描かれている。天井と壁は真っ白、湯船のタイルは青系だ。

 洗い場で体を拭いてから、脱衣所に出る。風呂上がりはいつも体重計に乗る。ここ数年は50キロ台後半をうろうろしている。次の健康診断までにあと2〜3キロ落としたいと思いながら、日々の安い酒とつまみをやめられない。

脱衣所のテーブル周りの椅子に腰掛け、湯上がりの老女たちがおしゃべりしている。

ここも今日でおしまい。

あなたとはまた会うわね。

だって近所じゃない。

長いことお世話になったわねぇ。

ありがとね。

その間も番台から、今日は無料だから、いいのよぉ、の声が響く。

みんなお互いの顔を見ている。

この場所で、のれんや、かわいらしいタイル絵や、青い湯船や、高くて白い天井や、大きすぎるマッサージチェアや、缶ビールの売っていない小さな冷蔵庫を、きょろきょろ見ているのはわたしだけだ。ここにいる誰の顔も知らないわたしだけだった。

 

大黒湯:江戸川区南小岩6-29-15

2019年6月29日廃業

酸っぱい

食堂の端っこには食べ終わった食器をさげる場所、返却口がある。

返却口の手前には水の流れる溝がある。ここに食べ残しを落とす。溝の奥には水の溜まった大きな水槽がある。ここに食器を落とす。食器は洗われ翌日も使われる。

溝に落とされた食べ残しは水で流され一ヶ所に溜まる。溜まった食べ残しは二重のゴミ袋に入れられ、ポリバケツに入れられ、ゴミ置き場に捨てられる。

ときどき友人たちと飯に行く。友人たちが食べ残したものもわたしは平気で食べられる。食べ残しはまだゴミじゃない。

皿にのっていた食べ残しは、どこでゴミにかわるんだろう。 

必要とされなくなったら。

でも誰かが必要としなくなっても、他の誰かが必要ならまだゴミじゃない。

それなら、この世にゴミなんかない。

でもゴミとして捨てられるものもある。

それは捨てる側がゴミだと思うから。

あいかわらず近くの大学の食堂でアルバイトをしている。食堂に入る業者がかわり、残るか他の大学に行くか悩んだが、近さを選びそのまま残ることにした。

返却口の掃除をして、溜まった生ゴミ素手で掻き出す。たいてい掃除の水や汁がとんで制服が濡れる。明日着る替えの制服の用意を忘れて、汁がとんだ制服をそのままロッカーにしまう。次の日、ロッカーをあけるとちょっと酸っぱい。開けたとたんの空気が酸っぱい。

市場の屋根

沖縄の那覇市、土産物屋が並ぶ国際通りを、ゆいレール牧志駅を背にしばらく歩くと、アーケードのある横道が左手に3本現れる。アーケードの入口にはそれぞれ、平和通り、むつみ橋通り、市場本通り、と看板がかかげられている。そのうちの市場本通りを土産物屋の軒先をのぞきながら歩いていくと、第一牧志公設市場にぶつかる。市場本通りは牧志公設市場にぶつかると市場中央通りと名前を変えて、浮島通りまで続いていく。

浮島通りを越えると、また別のアーケード商店街、新天地市場本通りが現れる。市場中央通りよりだいぶ細く、土産物屋は消え、地元の人たち用の服屋、食堂が並び、サンライズなは商店街を越えると、太平通りとまた名前を変え、今度は惣菜屋や八百屋、雑貨屋が現れる。

太平通りの端にある総菜屋で天ぷらをいくつかと、小さな弁当か、ソーミンチャンプルーかを買って、市場中央通りの裏手にそってあるパラソル通りのテーブルで食べる。天ぷらひとつ50円、ソーミンチャンプルー100円、弁当は小さめのもので200円、ととても安い。お昼は何を食べたんですか、と宇田さんに訊かれ、宇田さんの天ぷら屋で買ってパラソル通りで食べたよ、と話すと、わたしの天ぷら屋じゃないですけどね、と宇田さんが言う。

2月に市場の古本屋ウララで個展をした際、店主の宇田さんは文章を寄せてくれたが、そのうちのひとつ「天ぷら」という掌編は、総菜屋で買った天ぷらとソーミンチャンプルーを、ウララの帳場で昼飯として食べる話だ。「天ぷら」を読んでから、昼ごろ小腹が空くと宇田さんの天ぷら屋に足が向く。天ぷらが並ぶショーケースを見ながら、もずくとー、ゴーヤとー、と店先で伝えると、ビニール袋にぽいっと天ぷらを入れて渡される。手の中でほんのり温かい。

3本のアーケード街の真ん中のむつみ橋通りは、市場本通りと平和通りに比べて入り口はだいぶ狭いが、きちんとアーケードがかけられている。ドラッグストアや飲食店の軒先を過ぎると、パラソル通りと呼ばれるパラソルの下にテーブルと椅子が置かれた広場に出る。途中、判断金玉、と看板をかかげる占い屋の前を過ぎると、もうひとつのパラソル通りが現われる。どちらの通りもアーケードはなく、両脇には服屋が多い。パラソルの下の椅子に腰掛けて空を見ながら天ぷらをかじる。国際通りを背にしてパラソル通りの左手に建つ、衣料部のビルの入り口には透明のビニールカーテンがひかれ、風が吹きカーテンが揺れるたび、ビルの中のクーラーでよく冷された空気が、天ぷらをかじるわたしの足元をさーっと撫でる。

パラソル通りをふたつ越えた突き当たりで、道は二手に分かれる。どちらの道も抜けられるのか不安になるほど細いが、ここからまたアーケードが復活して続く。右手の細い道を行くと、浮島通りへするっと出る。左手の道を行くと、うりずん横丁を越えたところでえびす通りと名前を変え、サンライズなはにぶつかって止まる。えびす通りのアーケードはとても古く、枠が木、ビニールのテントではなく塩ビのような半透明の板が貼られている。葉っぱの用な模様入りの板もある。もともと青く塗られていたのが日に焼けて茶色になったのか、昼間のえびす通りは青と茶色のまだらな光が道に落ちる。

3本目のアーケード、平和通りに入ると、こちらも土産物屋が両脇に並ぶ。しばらく行くと左手に桜坂へ抜けるのぼり坂がある。坂の入り口左手に、電柱の影に隠れるようにある小さなミシンの修理屋と、その横の路上にへばりつくようにあるお茶屋お茶屋の前を通るたびに、こんにちは、と音の台所さんが店先に声をかける。坂をのぼりきった右手に、映画館の入る桜坂劇場、左手に希望ヶ丘公園がある。坂の上の公園からはアーケード商店街の屋根屋根がよく見える。遠くの緑がこんもりしているあたりを指して、あの辺が七つ墓かも、と音の台所さんが言う。

桜坂の辺りで平和通りは二手に分れ、右手に行くとうりずん通りと名前を変えて、えびす通りと交差しながら浮島通りまで続く。左手に行くと道は大きく右手に折れてサンライズなはと名前を変えて続いていく。どの道も国際通りから離れれば離れるほど、地元の人用の店が増えていく。服屋のあるところには服屋が固まり、そのそばに服のお直し屋が固まり、総菜屋のあたりには総菜屋が固まる。

牧志公設市場の建物の周り、東西北の三方は道に面してアーケードがかかり、雨の日も国際通りから濡れずに市場まで行ける。残る南側も隣接する琉球銀行との隙間、幅1メートルあるかないかの、けもの道のような路地にも屋根がかかる。

牧志公設市場の南側、琉球銀行から浮島通りまでの入り組んだ路地も、アーケードだったり屋根だったりで覆われている。ときどきアーケードがぽかりと途切れて空が見える。大きな台風で飛ばされたあとだという。

牧志公設市場の1階中央にはのぼりのエスカレーターがひとつだけある。豚の顔が飾られた肉屋を見ながらエスカレーターで2階にあがると、食堂街になっている。飯屋と飯屋が壁らしい壁もなく隣接してぐるっと外壁にへばりついている。てきとーな飯屋に入ってチャンプルーをつまみにオリオンの生ビールを飲み、便所で尿意を落ち着かせてから端にある階段で1階におりる。公設市場の1階には道に面して十ヶ所以上の出入り口があり、ぼんやり出てしまうと、ここは東西南北どの面だったっけと、頭のなかのコンパスを急いで回す。わたしが一番よく使う便所のそばの階段をおりて、一番近い出入り口を抜けると、琉球銀行との隙間のけもの道のような路地に出る。この隙間を市場中央通りまで抜けたちょうど正面に、市場の古本屋ウララがある。

2019年6月16日の営業を最後に、第一牧志公設市場は建て替え工事に入り、市場にくっついて建てられていたアーケードも撤去される。2月の個展でウララを訪れたさい、市場界隈はぐるっと歩いたはずだが、変わる景色を前には歩き足りない気がして、6月の頭にもう一度沖縄を訪れた。

市場界隈の入り組んだ路地をすべて歩きたい。いい地図はないかと宇田さんに訊ねると、すすめてくれたのが冊子『みーきゅるきゅる』vol.6 (特集 牧志公設市場 衣料部・雑貨部)だった。真ん中の見開きページに「あまんくまんお散歩MAP」と題して、市場界隈の手描きの地図が載っている。地図のページを広げ、鉛筆で道を塗りつぶしながら、市場界隈を歩き回った。どの道とどの道が繋がっているか、アーケードがあるか、屋根があるか、塗りつぶしていくとよくわかる。 

6月頭の沖縄はすでに梅雨で、滞在中、一日のどこかで必ず雨が降っていた。東京の梅雨が軽く思えるほど、沖縄の暑さと湿気はだいぶ重い。格安航空券で、少しでも滞在時間を長くしたいと欲張った結果、羽田発6時半、那覇着9時半の便になった。那覇空港から出たとたん、沖縄の湿気が寝不足の体にずんときた。ずんときたまま国際通りを歩き、アーケードのある市場本通りに入ったとたん、ずんがすーっと抜けていった。

アーケードで陽射しも雨もよけられ、両脇に並ぶ店は扉もなく開け放たれ、店の中からクーラーの風が道全体にほどよく流れ込んでくる。濡れずに第一牧志公設市場まで歩き、2階の食堂街でオリオンの生をぐぴっーと飲んて一息ついた。

市場の建て替え工事とともにウララの前のアーケードもなくなると聞いたとき、雨と台風が多く、陽射しの強い沖縄での商売の大変さを思ったが、梅雨の時期に来てみれば、アーケードの恩恵を受けているのは、わたしのような観光客、歩行者も、だった。

市場界隈の店はほぼすべて、店の軒先を越えて路上まで、商品が出され並べられている。派手な柄の南国チックな服も、変わった形の野菜も、色とりどりの魚や乾物も、東京ではまず見られない光景だ。道に溢れたここでしか見られないモノと色は、この町に観光客を呼ぶ大きな要素だ。どんな日にも安心してモノが出せるのもアーケードのおかげ、どんな日にも気軽に歩き回れるのもアーケードのおかげだが、こうした光景も、6月16日を最後に少しずつなくなっていく。

滞在中に読んでいた本がもう1冊ある。第一牧志公設市場と周辺の店の成り立ちを取り上げた、橋本倫史くんの『市場界隈』(本の雑誌社)だ。来る前に三分の二ほど読み、滞在中に終わりまで読んだ。『市場界隈』のなかで取り上げられている店の前を通ると、ここが、と足が止まった。読んだあと、それぞれの店の物語を知った後に町を歩くと、読む前とは町が違って見えた。

ウララの軒先でおしゃべりしていると、一人の男が『市場界隈』をすっと手に取り、ください、と言った。それ友人が書いた本なんですよ。つい声をかけた。よく行く店のおばちゃんがこの表紙だからさ。これからサインもらいに行くんだ。そう言って男は市場の中に消えていった。

男はすぐに戻ってきた。もらったサインを見せながら言う。表紙のおばちゃんがね、この本には大事なことが書かれているって、大事な本だよって。

 先日、音の台所さんが東京で朗読会をした。朗読に選んだ文章は、宇田さんの本から、ウララの帳場から眺めた日々を書いた掌編がほとんどだったが、『市場界隈』の中から一編だけ「大和屋パン」が読まれた。大和屋パンは、牧志公設市場の南側の路地の中、かりゆし通りに面してある小さなパン屋だ。ここでパンを焼いているわけではなく、仕入れたパンを路上に並べて売っている。音の台所さんがウララでの店番中、ここで買ったパンを食べる。よく買うのは、マリリンと、あとひとつ蓬莱だったか、生クリームの入ってないやつで、パンの名前まで東京とはずいぶん違う。

宇田さんがね『市場界隈』が出た後パンを買いに行ったんだって。恥ずかしくてしばらく読めなかったって。でも思い切って読んでみたらすごくよかった。同じ市場のよく顔を知った人たちが、こんな苦労をしていたのかとはじめて知った、と、驚いてたって。

「大和屋パン」にはこう書かれている。

「いつも買いに来てくれる方には『いつもありがとう』と手を握ってお釣りを渡すときもある。感謝しているから、自然にそうなるわけ。」

わたしはまだ、手を握ってお釣りをもらったことはないんだけど。音の台所さんが小さく笑う。

 市場中央通りのアーケードのうち、撤去されるのは市場にくっついて建てられた50メートル分。そのちょうど50メートルの境目に、市場の古本屋ウララがある。見上げると看板の真ん中に、撤去されるアーケードと、残るアーケードの境目がある。どうりで、市場と琉球銀行の隙間を抜けるとウララの前に出るはずだ。よく見ると看板に大きく描かれた「市場の古本屋ウララ」の「場」の字も間違っている。

宇田さんは、半分になった屋根の下、ここで市場を見つめるという。

「本のあるところ」入谷コピー文庫

堀内恭さんが発行している『入谷コピー文庫』にときどきよばれて文章を書いている。毎回、テーマもまちまち、書く人もまちまち、堀内さんが声をかけた人たちの文章がコピーされ綴じられる、たった20部だけ作られる小さな同人誌だ。ブログへの転載は問題ありません、とのことなので、ときどき『入谷コピー文庫』に書いた文章をこちらに載せようと思う。今回のテーマは、大滝秀治人間劇場シリーズ第4回『お世話になりました』。

 

「本のあるところ」

小学校は家の目の前の公立だったが、中学からは私立の女子校に通った。通ったというか、わたしの粗雑な性格をどうにかしようとした母に放り込まれた。うちから山手線で一駅目にある学校だった。

朝、明治通り池袋駅に向かって歩くと、同じ小学校に通っていた彼らとすれ違う。ひとり違う制服が通学路から浮いていて、おはよー、元気ー、そんなことばさえ彼らの固まりに投げられない。でもそんなことはちっとも気にしていませんよ、とちっぽけな見栄を貼り付けた顔で駅まで歩く。

中学に入学してすぐのころは、公立に行った彼らの遊びに混ぜてもらっていたが、彼らの口から出る知らない固有名詞についていけなくてやめた。女子校で話す人は出来たが駅や電車で別れてしまえば、放課後、家の近所で気軽に遊ぶ人もいない。

学校が終わると、池袋駅の改札を抜け、西武百貨店を抜けて雑司ヶ谷の家まで帰る。百貨店の雑司ヶ谷よりのどん突きにはあのころ新刊本屋のリブロがあった。まっすぐ家に帰ってもすることがないから、仕方がないからリブロに寄る。

日々顔の変わる雑誌の棚は、毎日立ち読みしても飽きない。読めもしないのに人文書の棚や洋書の棚を眺め、気になる背表紙を引っぱり出してはまた戻す。詩集を扱うぽえむ・ぱろうるでは、詩集だけじゃなくガロ系の漫画も立ち読みできる。美術書を扱うアール・ヴィヴァンには、見たことのない画集や現代美術の本が宝石みたいに並べられている。真っ赤なアール・ヴィヴァンの棚から先、洞窟のようにのびた黒い棚は、現代音楽、演劇、映画へと続いて迷路のようだ。

ひとりぼっちで金もないので、休日も本屋しか行くところがない。リブロの棚に飽きると、池袋東口の新栄堂書店、雑司ヶ谷の高田書店、目白駅前の野上書店と、家から歩ける本屋から本屋へ、サンダルをつっかけて回る。歩き疲れると図書館で休む。本のあるところはひとりが目立たなくていい。

アール・ヴィヴァンで芸術は格好いいと、親鳥を追うヒヨコのように刷り込まれたので絵を描きはじめた。ハタチから通った絵の学校は曙橋にあったので、学費を稼ぐために新宿でアルバイトをはじめた。本のあるところには馴染みがあったので、選んだ先は本屋だった。

新宿駅の西口、小滝橋通り沿い、夫婦ふたりとアルバイトがふたりの小さな新刊本屋だ。主な仕事はレジ打ちと近くの店への雑誌の配達。美容院へ持っていく女性誌は重く、喫茶店や銀行へ持っていく週刊誌は軽い。雑居ビルのなかの増毛カツラ屋にも雑誌の配達なら入り込める。2年くらい続けたが、近くにチェーンの本屋が出来て潰れて辞めた。チェーンの本屋もそのうち潰れてドラッグストアになった。

 新宿の百貨店のアルバイトで知り合った人から、新しく出来た新刊本屋で働かないかと誘われた。池袋のリブロの向かいに出来たジュンク堂書店だ。面接に行くとあっさり受かり、散々通ったリブロの向かいで働きはじめた。

はじめは児童書の棚だったが、すぐに医学と福祉の棚に移動になった。医学書院、医歯薬出版、文光堂、今日の治療薬、DMS−Ⅳ。なんのこっちゃかわからないがお祭りみたいによく売れた。潰れた本屋からよく売れる本屋へ、よく売れる棚へ、自分の手柄でもないのに自分の手柄みたいな顔をして6〜7年働いた。

描き続けた絵ではじめて本の仕事をしたのもそのころだ。林真理子の『白蓮れんれん』の文庫本の装画、青い花の絵だ。自分の絵が、本のあるところに、文庫の棚に平積みされている。何度も何度も見に行った。

ジュンク堂を辞めるころ、今度は古本屋と知り合った。不忍の一箱古本市がはじまり、古書往来座外市がはじまり、やがてみちくさ市になり、一緒に古本のイベントをするうちに、早稲田や池袋の古本屋と飲み歩くようになった。本の扱いには慣れてるからと、ときどき古書会館での催事のアルバイトにも誘われる。

その日、五反田の古書会館でのアルバイトを頼まれた。ほかの催事とかぶった古書赤いドリルさんの代わりに、クロークをやったり帳場に入ったり。古書会館の1階は安い本が並ぶ均一棚で、金を扱う人、本を包む人と、必ず二人一組で帳場に入る。月の輪書林さんが金を扱い、わたしが本を包んでいく。帳場のちょうど目の前は、古書赤いドリルの均一棚だ。

一日目はそこそこ売れたが二日目になるとなかなか本が動かない。今回のドリちゃんの均一本はあちこちの催事を回ってきた本だから、今日終わったらもう廃棄だからね、売れなくても仕方がないね、と月の輪さん。

それでも雇われたからにはと未連たらしく棚をいじると、月の輪さんも一緒になって棚を見はじめる。ふと小さく、わたしの横で何かをつぶやいたかと思うと、あれ、まだこんないい本あるじゃない、と棚から薄っぺらい本を引っぱり出した。『関口良雄さんを憶う』。これください、と帳場のわたしに笑ってみせた。それから、赤いドリルの棚が動きはじめた。

あのとき何て言ったんですか。なんかをアケルとか、ヒラクとか、ヒラケゴマみたいなこと棚に向かってつぶやきましたよね。しばらくしてから月の輪さんに尋ねると、俺そんな格好いいことやったっけ、と素知らぬ顔をされる。

でも、そう言えば、ななちゃんもよくそんなことを言ってたなぁ。聞きに行くことは出来ないけどね。

ななちゃんこと、なないろ文庫ふしぎ堂の田村さんは、古本屋で、『彷書月刊』の編集長で、月の輪さんの友だちで、2011年に亡くなっている。

 ななちゃんが言いそうなことを、田村さんと月の輪さんの友だちの石神井書林さんに尋ねると、あぁ、ななちゃんはそういうこと言うね、そういうこと言うんだよ、とうなずきながら考えはじめる。

「小さい窓でも開けようか。」

かなぁ。ななちゃん、そういうことする人なんだよ。

五反田の催事は二日目が終わると撤収作業に入る。次の催事でも使える本は縛ってよけて、使えない本はすべて廃棄だ。均一棚のすぐ前に横付けされたトラックの荷台に、古本屋たちが廃棄の本を放り込んでいく。運動会の玉入れみたいに、色とりどりの本たちが、宙を舞って荷台に落ちる。回収業者が溜まっていく本を踏みながら、荷台の上をならしていく。わたしも売れ残りの本たちを荷台に向かって投げていく。小さい窓から出て行けなかった本たちを。

「古本屋はみんな、死んだら地獄におちるよ。」

踏みつけられた本に向かって月の輪さんがことばを投げる。

ひとりぼっちの放課後から、死んだ後まで決めてもらって、今後とも、どうぞよろしくお願いします。

『銭湯断片日記』が出来るまで

2016年3月、龜鳴屋の勝井さんからメールが届いた。金沢の室生犀星記念館から出される冊子『をみなごのための室生家の料理集』への挿絵の依頼だった。仕事の依頼です、と書かれたメールのすみっこにあった、こんなことばがはじまりだった。

「なんで落武者、いや近藤勇、いや武藤さんに、といえば、前から、武藤さんの絵はいいなあと思っていたからで、(文章はさらにいいなあ、と。特に一連の銭湯遍路は、どこも出さないなら、ウチが手を上げようかと思ったりも)それに食べ物の絵のお仕事も多いですし、何か機会があったらお願いしようと思っておりました。」

わたしのSNSでのアカウント名から、顔が近藤勇に似ていると一部の友人から言われていることまで知っているこの人はなにものなのか。龜鳴屋の名前や本は岡崎武志さんのブログで読んで知ってはいたが、どんな人かまではわからなかった。わからなかったが、最初から最後までの勝井節に笑ってしまった。挿絵の依頼はもちろん引き受け、銭湯の本もお願いしますとメールを返した。
『をみなごのための室生家の料理集』は5月の連休に合わせて無事に出来上がり、次は銭湯の本ですね、とそこまではするする進んだ。
9月のある日、またメールが届いた。
「前に手を上げた『銭湯遍路』出版の件。とりあえずブログに上がっている全文、勝手に組んでみました。本の判型は、手持ちのいいサイズでと思い、文庫より一回り大きい116ミリ×158ミリにしたら、450ページ以上になっちまいましたが、まずは、これを土台に考えて行こうと思っています。ちなみに、仮ですがタイトルは『銭湯無頼日記』とし、日記風の構成にしました。もう、組んじゃったからには、明日、一方的に分厚いゲラを発送しようと思いますので、その予告まで。」
予告通りに分厚く重いゲラが届いた。仕事で人のゲラを読むことはあったが、自分のゲラを読むのははじめてだった。自分の文章が本になる。文字通り喜び勇んで数十ページ読み進めたが、やがて手が止まった。2007年からはじまる日記の、たかだか10年前の自分の行動が、得意げな文章が鼻につき、どうにも読んでいられなかった。
そのまま1年以上、ゲラを放った。その間、勝井さんにメールのひとつも返さなかった。勝井さんからの督促も一切なかった。
2017年の春には出しましょうと言われていたゲラを、再び引っぱり出したのは2017年の秋だった。恥ずかしさから逃げていたことに恥ずかしくなり、どうにか最後までゲラを読んだが、あっちを削り、こっちを削り、恥ずかしさを最小限にすることばかりに気を取られ、「校正」がなんだかもわかっていなかった。そのくせ、無頼じゃないから『銭湯無頼日記』のタイトルは嫌だ、巻末に銭湯のリストを載せたい、と要望だけはいっちょまえに返し、恥ずかしさと向き合えなかったと言い訳ばかりの手紙をつけ、勝井さんにゲラを返したのは2017年の暮れだった。
それから3ヶ月間、勝井さんから何の音沙汰もなかった。馬鹿なことをした迷惑をかけたとあきらめかけた春、何もなかったかのように二校が届いた。初校を放っておいた間に、ブログに書いた銭湯に行った日々と銭湯リストが足され、初校453ページだったゲラは461ページに増え、タイトルは『今日も銭湯日和 町々銭湯巡礼』と変えてあった。
二校とともに次の仕事の依頼があった。室生犀星記念館から出される二冊目の冊子『犀星スタイル』の挿絵だ。せっかくなのでお詫びと打ち合せも兼ねて、金沢へ行くことにした。室生犀星記念館で犀星の孫・室生洲々子さんにたくさんの資料を見せていただき、館内を見学し、夜は龜鳴屋に泊まらせてもらった。ミステリーファンだという勝井さんの蔵書、ハヤカワのポケミスが並ぶ畳の部屋だった。ポケミスの棚に、新聞だか雑誌だかの小さな切抜きが額装されて飾られていた。なんの記事ですかと尋ねると、種村季弘が金沢を訪ねた際、脳梗塞で倒れたときのものだと言う。
「種村さん浅野川で倒れたって自分で書いてるんだけど、ほんとは犀川の土手なんだよね。いやその時一緒にいたからさ。」
種村季弘中島らも西村賢太と、勝井さんが金沢で触れ合いつかみ合った作家たちの話はどれもはじめて聞く話ばかりだ。もったいない、ちゃんとどっかに書いて残してくださいよ、後々調べる人たちのためにも、と頼めば、だって文才ないもん、と逃げられる。
わたしだって文才ないもん。生きてる間に日記を出版した人たちはどうしていたのか。恥ずかしくはなかったのか。あまり削り過ぎても日記としてどうなのか。やっぱりここは戻してください、いややっぱり削ってください、と恥ずかしさで二転三転していると、勝井さんがこんなことを言う。
「解りづらいところを整えるのはいいけれど、後から直してはじめより面白くなった文章なんてないですよ。井伏鱒二だって晩年『山椒魚』をあんなにしちゃって。」
晩年の『山椒魚』は知らないが、その通りだと思いつつ、自分のこととなると、ではこのままで、とはなかなか出来ない。
「別に名前の表記だって、数字の表記だって、日によって違ってもいいんですよ。だってその日はそういう気分だったんでしょ。日記なんだから、全部揃える必要なんかないですよ。」
それでもどうにか整え、やっと「校正」らしきことをしはじめたのは三校あたりからか。タイトルも『銭湯断片日記』と落ち着いた。
校正が戻ってくるたびに、その間に行った銭湯のブログが足され、あとがきも足され、六校までいったゲラは初校から50ページ以上も増え、結果本文512ページとなった。
 念校と書かれた五校を読んでいたころ、石神井書林の内堀さんと会う機会があった。いま五校を読んでいるという話をすると驚かれ、戻ってくるたびにページが増えていると話すと、増えて戻ってきたら校正にならないじゃない、とまた驚かれた。
普通は著者がはじめに原稿を作って、それから校正をするからねぇ、ムトーの場合は勝井さんが先にゲラを作ったからね、と先日のトークショーでナンダロウさんに言われたが、原稿とゲラの違いもそのときまで知らなかった。
校正の他に、本文の活字、装画、描き文字、使う用紙、スピン、検印紙の絵と、決めなければならないことがたくさんあった。校正もデザインもプロにお願いしたらもっと楽に、もっといいものが出来上がるとわかっていたが、龜鳴屋がふだんそうした所に頼まないなら、わたしもそれに習おうと、ひとつひとつ勝井さんに相談しながら決めていった。
年ごとの章扉にその年に描いていた絵を使いたい、と言いだしたのはわたしだが、カラーページの印刷は金がかかるから、いっそのことこんなのはどお?と扉ごとの小さな絵の貼り込みを提案してきたのは勝井さんだ。9年分9枚、検印紙を合わせると1冊で10枚貼り込むことになる。500冊で5000枚だけど貼るの?貼れるの?と驚くと、いや一度に貼るわけじゃないから、注文がきたごとに貼れば大丈夫でしょう、と涼しい顔をする。
見本が龜鳴屋に届いた朝には電話があった。
「紙が思ってたより白過ぎるんだけど。毛の色も思ったより薄いような。どうする?ムトーさん、一冊ずつ上からなんか描いたり削ったりして汚す?」
言われて思い出したのは、以前勝井さんが話していたこんなことばだ。
「うちの本は本屋に置かないし、何冊も同時に並ぶ本じゃないから。1冊ずつ全部違っててもいいんですよ。誰にもわからないんだから。」
勝井さんになにか言われるたびにこれが龜鳴屋かとドキリとし、本来もっと自由なはずの本作りに勝手に枠をはめていた、自分の頭の固さにもドキリとした。
送ってもらった見本を見ると、いや紙の白さはこんなもんだし、銭湯っぽくていいんじゃない、下手に手を加えるよりはと、結局この話はここで終いになった。
2019年4月末。発売記念イベントに間に合うよう、貼り込み作業をしに金沢に行った。龜鳴屋のテーブルの上に年代順に小さな絵を並べ、ページに挟み、勝井さんが用意してくれたスティックのりで貼っていく。座ると腰が痛くなるからと、勝井さんは立ったまま作業する。2日間4人でやって出来上がったのは140冊。
5月末、貼り込み作業と署名を入れにまた金沢に行った。今度は勝井さんと2人で作業して30冊。前よりだいぶ早くなったと勝井さんが自慢げだ。
勝井さんが積まれた『銭湯断片日記』を眺めている。
「積み重ねたときのこの分厚い背表紙が好きなんですよ。毛の部分には2回ニスをかけていて。それが夜中に見ると光って見える。どうせ誰も気が付かないだろうけどね。」
 

『銭湯断片日記』取り扱い店

5月10日現在、わたしが把握している『銭湯断片日記』の取り扱い店です。店頭在庫は各店舗へお問い合せください。

もちろん、龜鳴屋のサイトからも通販できます。龜鳴屋は5千円以上の注文で送料無料になります。

書籍編集発行所「 龜鳴屋」

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火星の庭(仙台)

book cafe 火星の庭

■ボタン(仙台)

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古書往来座(南池袋)古書往来座のみ、検印紙の文字が「現物支給」です。

往来座地下

■ブックギャラリーポポタム(西池袋)

ブックギャラリーポポタム|東京目白にある本とギャラリーのお店 | 東京目白にある本とギャラリーのお店「ポポタム」のWebサイト。

■青聲社(目白台

■古書ますく堂(池袋)

古書ますく堂のなまけもの日記

■Title(荻窪

Title(タイトル) (@Title_books) | Twitter

■casimasi(兵庫県宝塚市

casimasi (@casimasi1) | Twitter

■市場の古本屋ウララ(沖縄)

市場の古本屋ウララ

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銭湯断片日記は送料が高い

『銭湯断片日記』、龜鳴屋のサイトでの通販がはじまりました。『銭湯断片日記』は本の厚さが3センチを超えるため、1冊送るのに400円から510円配送代がかかります。それならば、いっそのこと龜鳴屋の既刊本を一緒に注文するのはどうでしょうか。『銭湯断片日記』の横に並べて梱包し厚みが同じくらいまでなら、1冊分の配送代で既刊本分の配送代までまかなえます。さらに5千円以上まとめてご注文の方には配送代がサービスになります。この機会に、龜鳴屋の本に触れてもらえたらうれしいです。

ご注文は龜鳴屋のサイトからどうぞ。

kamenakuya.main.jp