正月が近づくと祖母は台所で玉子焼きを焼く。ガス台のまえに小さな祖母の背中がある。長方形の型に砂糖をたっぷり溶いた卵を流し込み、ちゃっちゃと箸で丸めていく。台所から甘い匂いが流れ出す。焼きあがった玉子焼きが木のまな板のうえに並べられていく。祖母のつくる甘い甘い玉子焼きは重く四角く砂糖で端がカラメル状に焦げている。焼きあがった玉子焼きは隣り近所に配られていく。卵や砂糖が貴重だったころの名残だろうか、まだうちが下宿をしていたころの忘れられない正月の風景だ。
正月の食卓に並ぶ祖母の甘い玉子焼きが苦手だった。子どもだったわたしの目や舌には、食べなれないおせちの色や味は奇妙にうつり、ちっともおいしいと思わない。ふだんの母がつくる、コーンやほうれん草を巻きこんだ塩気のきいた玉子焼きが好きだった。甘かった苦手だったと思い出すだけで、祖母の玉子焼きの味も覚えていない。
甘い玉子焼きもおいしいと思うようになったのは、大人になってから、目も舌もだいぶあばずれになってからだ。
池袋の西口にある定食屋にはつまみに玉子焼きがある。味は三種類、甘い、しょっぱい、甘辛い、から選べる。定食ができあがるまでのあいだ、砂糖と醤油の効いた甘辛い玉子焼きをつまみにビールを飲む。ビールの苦さと玉子の甘さが奇妙に合う。きつく巻かれた重い四角い祖母の玉子焼きと違い、定食屋の玉子焼きはふんわり軽く巻かれているが、やっぱり端が砂糖で焦げている。正月の祖母の背中を思い出し、いまのわたしの目と舌でもう一度あの甘い玉子焼きを食べたいと思っても祖母はいない。
祖母と父が亡くなり弟はよそにあたらしい家族をつくり、いまこの家には母とわたしの二人きりだ。家から人が減るたびに、正月の食卓が簡素になっていく。鶏だしに四角い焼き餅のはいった雑煮、甘く煮た八つ頭、紅白のかまぼこ、煮豆煮物、母のつくる甘さ控えめの玉子焼き。
元旦の食卓、わたしが箸をつけるたびに母は横から言葉をはさむ。今年の八つ頭の煮え方はどうだ。甘すぎないか。固すぎないか。餅は所沢の親戚の近所の人がついた餅だがどうか。玉子は焦げていないか。どこそこで買ってきたかまぼこの味はどうだ。雑煮はおいしくできたんじゃないか。
いちいち聞いてくる母に、わたしは至極適当に言葉を返す。いーんじゃない。ふつー。まぁまぁ。おいしいんじゃないの。今度こそ、母のつくる正月の甘さを覚えておこうと思いながら。