断片日記

断片と告知

21年目

18歳、高校三年の進路相談で、お前はどうしたいんだ、と担任に聞かれ、探検家になりたいです、と答えたが却下された。
中学高校6年間の女子校の授業の中で、一番好きなのは美術の時間だった。音楽、書道、美術と3教科から選べる中、6年間ずっと美術を選択していた。大きな窓と高い天井の美術室が好きだったし、男先生と女先生のふたり、どちらも好きだった。男先生は日本画を、女先生は油絵を描く人で、準備室をのぞくと、先生ふたりの描きかけの絵や描き終えた絵が、何枚も置かれていた。美術の課題は、中学高校らしい単純なものばかりだったが、図案を考える時間は楽しかった。美術の時間以外の、閑な教科、嫌いな教科の教科書やノートの余白は、思いつくままに鉛筆で書き込んだ、課題の図案で埋まっていた。出来上がった課題を提出する。ムトーいいね、これ。先生たちは、いつも同じ場所から、ものを創る人として対等に見て話してくれた。だから、わたしは、このふたりが好きで、美術が好きだった。
進路で悩んだ結果、やっぱり絵が描きたいんです、と相談しに行ったのは、担任ではなく、高3のときの美術の担当の男先生だった。お前はいまさらまったく、と言いながら、明日から毎日りんごと牛乳パックを描いてきなさい、と言ってくれた。丸いりんごを買い、冷蔵庫から四角い牛乳パックを出し、部屋で毎日鉛筆で描く。下手なデッサンを見せに、放課後、男先生のいる準備室へ通う。そうして冬を過ごし、春に、小さな短大の、生活芸術科にすべり込んだ。
短大の2年はあっという間で、生活芸術科の中のグラフィックを専攻したが、何かを学んだというより、表面を撫でた程度で、物足りなかった。初期のマッキントッシュのコンピューターが1台だけ、先生の机の上に、大事そうに置かれていた。授業では、烏口を使い、インクで文字を書くことを習った。パソコンはまだ、1人に1台の時代ではなかった。
短大を卒業しても就職する気はなかった。消化不良に終わった分、もっと絵が描きたい、と思いはより強くなった。文化服装、文化学園、桑沢、セツ。その頃よく、雑誌で取り上げられていた美術系の学校。文化服装は服飾だからのぞくとして、その中でセツ・モードセミナーを選んだのは、雑誌「オリーブ」のロケでよく使われていたかわいらしい校舎に憧れたからでもなく、雑誌「イラストレーション」で活躍するイラストレーターの人たちの出身校にセツの名前が多かったからでもなく、単に学費が安かったからだ。入学金と半年だか1年だかの学費を合わせて、18万くらいだったと思う。馬鹿みたいに高い美術系の学校の中で、馬鹿みたいに安いセツしか、わたしの稼いだアルバイト代で通える学校はなかった。長沢節が誰なのか、どういう人なのかも、知らなかった。
試験はくじ引きだった。試験日にセツに行くと、試験を受けにきた生徒の列があり、その先に、先生のひとりがダンボール箱を持って立っていた。箱に手を突っ込むと、折りたたんだ紙がいくつもあり、そのうちの当りのひとつをひいて、私はあっけなく合格した。試験がくじ引きなのは、今まで絵の勉強をしたことがない人にも平等に学ぶ機会を与えるため、と聞いた気がする。デッサンもまともに描けないわたしには都合のいい試験だったが、くじ運のない人には不幸な試験だった。
週に3日、午前、午後、夜間、と3クラスあるうちの、わたしは午後部に通った。服を着たままのモデルを描くコスチュームデッサン、裸体デッサン、そして水彩の時間が、主なセツの授業だった。教室の真ん中に、コスチュームか、裸体のモデル、その周りに輪を描くように生徒が並ぶ。右手に鉛筆、左手にドローイング帳を持ち、ただひたすらデッサンを描く。モデルたちはいずれも、節先生好みの、くるぶしの尖った華奢な男女で、5分だか10分だかでポーズをかえ、生徒たちも新たな構図を求めてその周りを動く。節先生がふらりと入ってきて、生徒たちに混ざってデッサンを描きだす。もともと静かな教室に、さらに、ぴりっ、とした空気が流れて締まる。しょうもない絵を描く生徒に、オナニーしてんじゃないよ、と言っている節先生を見たことがある。ロビーで見る節先生はいつもにこやかで、教室で見る節先生はいつも怖かった。
休憩時間が近づくと、珈琲のいい香りが、下のロビーから流れてくる。節先生か、星先生か、初川先生が、自ら珈琲をいれてくださる。1杯100円だったか200円だったか。ロビーや、気持ちのいい緑の庭で、珈琲を飲む。ロビーには、下品な缶ジュースの持ち込みお断り、の張り紙があった。
せっかくくじ引きで当っても、辞めていく生徒も多かった。入って数ヶ月で、半分近くに減っていく。課題があるわけじゃない、手取り足取り教えてくれるわけじゃない、ただひたすら絵を描くだけ。合わない人には合わない、合う人には最高の学校だった。本科は2年で卒業だが、その上に研究科もあった。月1万円だった学費が、研究科にいくとさらに安く、月5千円になった。結局わたしは、本科に2年、研究科に3年、20歳から25歳までの5年間、セツに通い絵を描き続けた。
通わなくなってしばらくして、節先生が亡くなった。毎年写生旅行に行く千葉県の大原で、自転車に乗っていて転び、頭をぶつけたのだ。セツの大原写生旅行は楽しかった。お金のある人はホテルに、ないやつは旅館や民宿に、もっとないやつは野宿で、さらには日帰りでと、6月の大原に、行けるやつらが気ままに集まり、海や空や町の絵を描いた。大原のあちこちに画板を広げたやつらがいて、節先生は、ホテルで借りた自転車でその間を走る。気に入った場所に自転車をとめ、籠から画板と絵の具を下ろし、絵を描く。そんな毎年だった。葬式には行かなかった。天蓋つきのベッドで眠るおしゃれな節先生に葬式は似合わない、と思ったからだ。
セツには行かなくなったが、絵は描き続けた。アルバイトをしながら、絵を描き、コンペに出し続けた。はじめて入ったコンペは、青山のHBギャラリーのファイルコンペで、1999年、28歳のときだった。年末に電話があり、そのときわたしは池袋のパルコにいて、電話を切ったあと、うれしくてそのままパルコの階段で泣いた。
絵を描きたいんです、と言ったときから20年経った。今日、10月16日は、わたしの誕生日で、39歳で、今日から21年目に入る。