断片日記

断片と告知

アパートの住人

少しだけ空いた時間で不動産屋を覗き、アトリエの物件を探した。相変わらずそれらしい物件は無かったが、ひとつだけ、以前気になっていた部屋がまだ残っていた。決まりかけたんだけどキャンセルになったのよ、と不動産屋の女性は言い、見てくれば、と気軽にアパートの鍵を渡してくれた。
薄っぺらい安っぽい鍵を差してドアを開けた。板間の7畳半に2間の押し入れ、台所に便所。面積よりも明るく広く見える部屋は、外から見るよりも感じが良かった。三つある窓を開け、床に座り、部屋と部屋から見える景色を見渡した。前の家の三角の屋根、空の見え方、悪くなかった。
鍵を閉め、不動産屋に戻ろうとしたが、鍵の閉め方が解らなかった。右に回す、左に回す、何度繰り返しても鍵はかからなかった。立ちすくんでいると、3軒隣りの部屋の住人が出てきた。すみません、鍵の閉め方が解らないんですが。不動産屋に紹介されてアパートを見にきたことを、小さく言い分けしながら聞いた。
僕もはじめてここに来たときはわからなかったんですよ。青年と中年の間に見える男は笑い、このアパート独自の鍵の閉め方を教えてくれた。隣りの人はどんな人ですか。男の人懐こい笑顔に付け込み、もう少し、このアパートのことを知ろうと思った。若い男で、しょっちゅう彼女連れ込んでるけど、いい人ですよ。その隣りの人はどんな人ですか。おばさんですよ、いい人ですよ。
しょっちゅう彼女を連れ込む若い男の部屋に人の気配はなかったが、窓の外にはたくさんの洗濯物が干されていた。洗濯ものが並ぶ下には、腰掛けるのに調度いい木の台があり、そこには、安全剃刀、携帯の充電器、灰皿、が置きっ放しになっていた。2階の、外廊下兼物干し台のこの場所で、毎朝空を見ながら、髭を剃る若い男の姿が浮かんだ。剃り終わると煙草を一服。充電していた携帯電話を取り上げ、学校か会社に向かう。会ったこともない隣人を想像し、悪くないと、またそう思った。
しょっちゅう彼女を連れ込む若い男も、その隣りのおばさんも、良くも悪くもない、おそらく普通の人たちだ。彼らをいい人ですよと紹介し、近くのコンビニ、ほか弁屋まで教えてくれるこの人懐こい笑顔の男が、たぶんこのアパートで1番いい人なんだろう。男は出かける途中だった。引き止めてしまってすみません。謝るわたしに、最後まで笑顔だった。