断片日記

断片と告知

地震の日から

3月11日午後2時過ぎ。大きな地震があった。目白と椎名町の間にある、目白図書館にいた。ぼんやりと本を見ていた。地震だ。誰かが小さく叫んだ。地下にある事務所から、職員の人たちが階段を駆け上がってきて、固まっている利用者に注意をあたえ、棚の間を見て回った。揺れは長く大きく、なかなかおさまらなかった。室内にいるのが怖くなり、図書館の外に出た。図書館の入り口に立ち、揺れる電線を見ていた。同じように図書館から出てきた女性と目が合った。みんな平気そう、怖くないのかしら。みんな怖いですよ、と答えた。こんな大きな地震ははじめて、子供を迎えに行かなきゃ、どうしよう。地震がおさまるまで、女性はしゃべり続けた。黙ることが怖いことみたいに。
5分にも10分にも感じた。揺れがおさまったのを確認し、本を借りて、アトリエのある要町近くの小学校まで歩いた。歩いている途中、何度か地面が揺れた。要町通りも、街も人も、いつもとそう変わらないように見えたが、小学校のそばまで来ると、一部ブロック塀が、屋根瓦が崩れ、細い路地の真ん中に、小さな山をつくっていた。
小学校に着くと、校庭にたくさんの人たちがいた。おさまらない余震に、皆どうしていいのかわからない様子だった。校庭の端に建てられた工事用のプレハブ小屋の窓が、余震があるたびに、びりびりと嫌な音をたてていた。ヘリコプターの音、サイレンの音が、絶えずどこからか聞こえていた。すぐ近くで小火があったらしく、焦げ臭い匂いが校庭に漂っていた。
校庭で知人の顔を見つけた。知人の、テレビが写る携帯電話の小さな画面を横から覗き込み、震源地は東京ではないことを知ったが、何が起こっているのか、まだよくわからなかった。
余震は続いていたが、校舎に戻る人、家に帰る人に分かれ、校庭から徐々に人は減っていった。受付で鍵をもらい、校舎の3階にあるアトリエに行った。入り口の引き戸が、何かにつかえて最後まで開かなかった。覗き込むと、入り口すぐに置いてある大きなスチールの棚が倒れ、引き戸にもたれかかっていた。校舎を管理する職員の人を呼び、一緒に棚を起こした。アトリエの中は、積み上げていた雑誌や本が崩れ床に散乱したくらいで、たいした被害はなかった。揺れ続けてはいたが、いつものように絵を描き、夜までアトリエで過ごした。携帯電話は、繫がったり繫がらなかったりした。
校舎を出たところで、知人に会った。地震の影響で電車が止まっていると、教えてくれた。小学校そばの細い道はいつものように静かだったが、要町通りに出ると、道の両脇を歩く人たちが埋めていた。皆、池袋駅を背にして、要町方面の西へ向かって歩いていた。公衆電話がない、と言って、カップルが喧嘩していた。コンビニ前の1台しかない公衆電話には、長い長い列が出来ていた。外からコンビニの中を見ると、棚から、飲料水と食べ物が消えていた。
家の近くまで歩き、よく行くラーメン屋が、いつものように開いているのを見てほっとした。明治通りも、池袋へ、新宿へ、向かって歩く人たちでごった返していたが、古書往来座が、いつも通りに明かりがついているのを見て、ほっとした。往来座の向かいにあるコンビニに入り、売り切れる様子のない缶チューハイを買った。コンビニ内の便所には長い列が出来ていて、カップ麺を大量に買い込んでいる人たちがいた。
缶チューハイを飲みながら、いつものように往来座に入った。店内には帰宅途中の立石書店の岡島さんがいて、帳場には瀬戸さんと王子がいて、大丈夫だった?、と言い合った。往来座にも、わめぞの他の店舗にもたいして被害がないこと、震源地に近い、仙台「火星の庭」のみんなも大丈夫らしいことを聞いて、落ち着いた。
飲みながら話していると、明治通りを歩いて帰宅する人たちが、たびたび往来座を覗いていった。こんなことがなきゃここに古本屋があるの知らなかったよ、そう言いながら。これから川崎まで歩くという年配のご夫婦は、外の均一棚にある古い広辞苑を、懐かしい、と言って買っていった。重いのに、と心配をよそに、寄り道しながら歩くのが楽しいと、笑っていた。皆、これからどこそこまで歩く、と電車に乗っても遠いと感じる地名を言い、また来るよ、と言いながら帰っていった。大変さを、誰かに笑って話すことで、少しでも軽くするように。
家に帰り、崩れていた本を直し、パソコンを立ち上げた。友人から来ていたメールに無事ですと返信し、ツイッターで友人知人が無事なことを確認し、眠りについた。地震津波の被害の大きさを知ったのは、翌朝の新聞とテレビ。原発の事故を知ったのはさらにその後だった。
輪番停電というはじめて聞く言葉が流れ、いつの間にか計画停電という言葉に変わり、街が暗くなった。池袋駅周辺の百貨店や大型店は、営業時間を夜6時までに短縮。アトリエそばの図書館も利用時間を夕方5時までに短縮。コンビニやチェーン店の看板は電気が消され、節電中につき電気は消していますが営業しています、と書かれた紙が入り口にぺろっと貼られていた。映画館、早稲田松竹はシャッターがおりたまま。電車の本数も減り、夕方のラッシュ時には西武池袋線の改札から、利用者が溢れていた。道を走る車も、歩く人も、極端に少なくなった。トイレットペーパーと乾電池が買えない、と母がぼやいていた。
地震から1週間近く経っているのに、あの日から、街も人もテレビも、どこかが止まってしまったように見える。わたしはと言えば、締め切りが延びるという話も聞かないので、結局毎日アトリエに通い、絵を描き、夜は誰かと飲んでいる。本当なら、今週末は「みちくさ市」で、来週は東京に遊びに来るはずだった「火星の庭」の前野さんとめぐたんと、飲んでいるはずだった。なるべくいつもと変わらない生活をしながら、何が出来るのか、電気を消した部屋でずっと考えているが、答えは出ないままだ。