断片日記

断片と告知

隣人の夜

アトリエとして借りている風呂なしアパートの隣人は、ガスも電気も契約しておらず、部屋に通っているのは水道だけだと大家から聞いた。昼過ぎアトリエに行くとたいてい隣人はおらず、前日に着た分をそのまま流しで手洗いしたような、きっちり一日分だけの洗濯ものが、アパートの軒先兼廊下にゆれているのを見る。夕方もしくは日が落ちてから、どこからか帰ってきた隣人は、建てつけの悪い戸の鍵穴をがちゃがちゃとかき回す。夏の間、開け放されたままの戸や窓から、部屋に寝転ぶ隣人の放り出された手や足をよく見かけたが、寒くなったいま、閉ざされた戸や窓の奥、隣人がなにをしているのか、本当に帰ってきているのかさえ疑わしい。まれに聞こえる便所の水を流す音で、忘れていた存在を思い出す。ガスや電気のない昔でさえ、ロウソクや行灯や焚き火はあったはずで、飯を食ったり、酒を飲んだり、本を読んだり、それぞれの小さな明かりの下のそれぞれの夜の過ごしかたがあったはずで、それなのに火の気も明かりもないアパートの閉ざされた部屋は、夜というよりもただの闇だ。先日、住民調査だといってアトリエの戸を叩いた警官に、このアパートいつも暗いから、ひと住んでますか、と聞かれ、はい、と答えたそのときもおそらく、すぐ横の闇の中にただ横たわる隣人の手足。