断片日記

断片と告知

くまの湯

廃業する銭湯ばかり追いかけているわけではないが、何日に廃業すると知ってしまえば、いま見ておかなければと心があせる。廃業の日の銭湯には、いつもとは違う、その日だけの空気が流れている。
大江戸線の終点、光が丘まで。地下鉄の駅の上に建ち並ぶ団地群を迂回するようにして、光が丘のひとつ手前の駅、練馬春日町に向かってしばらく歩く。梅林公園の手前を左折、住宅街のなかに現れたテニスコートの向こうに、だいぶ立派な煙突を見つける。近寄ると白く塗られた煙突に、赤字で露天風呂、その下に黒字でくまの湯の文字が見える。11月30日で廃業する「くまの湯」の煙突だ。
コンクリート造の2階建て、入り口右手にコインランドリー、左手に屋根つきの駐輪場、建物を囲むように十数台はとめられそうな駐車場がある。入り口横の壁には、機械の故障と老朽化に伴い11月30日(金)をもちまして閉店、の紙が貼られている。
暖簾をくぐる。右手と正面に下足箱、正面の下足箱の横に自動のガラス戸。ガラス戸を入ってすぐに券売機、広めのロビー、右手にフロント、フロントの向こうに女湯の入り口がある。フロントで券を渡すと、今日で閉店なんでね、みんなにあげてるからね、と店主に小さなビニール袋を渡される。中には花王の石鹸の大小、携帯用の小さなシャンプー、リンス、ボディソープ、ビジネスマンと書かれた貝印のカミソリが入っている。ここで売られていたものなのだろう、フロントの周りがやけにすっきり片付いている。
飾り気のない脱衣所のなかで、目を引くのは体重計の横に置かれた身長計だ。小学校の保健室にあるような、一昔前の木製のもの。服を脱いだついでに、汗をながしたから少しでも、と風呂屋で体重をはかる気持ちはわかるが、身長計はとても珍しい。そもそも身長を裸ではかる意味がない。
洗い場。左手に大きな水風呂、右手に別料金のサウナ、立ちシャワーのブース、露天風呂の入り口、正面に大きな浅めと深めの湯船がふたつ、入り口から正面の湯船の間に島カランが2列ある。正面の壁には、10センチ四方のタイルが貼られ、その上にどこかの山脈と中途半端に紅葉した林、真ん中に大きな川、のペンキ絵が描かれている。露天風呂の入り口のガラス戸には故障中の張り紙。ガラス戸に顔をつけて外を見ると、水の抜かれた大きな岩風呂が見えた。
脱衣所でも洗い場でも常連客たちの、寂しくなるわねぇ、の声が響いている。この場所がなくなる寂しさよりも、毎日のように裸を見ていた顔たちと会えなくなる寂しさのほうに、より強さを感じる。銭湯だけでしか会わない顔というのもあるのだきっと。飲み屋だけでしか、映画館でしか、古本屋でしか、会わない顔があるように。フロントのほうから声が聞こえてくる。長い間お世話になりました。常連客の誰かが店主に向かって最後の挨拶をしている。
フロントで銭湯遍路の判子を押してもらう。「くまの湯」の開業の年を聞くと、あー何年だっけ東京オリンピックの年だから、と店主が答える。缶ビールを1本買って外で立ち飲む。入れ違いに入ってきた男が、入り口横に貼られた廃業の紙を見て、あれ、うそ、と立ち止まる。出てきた店主が、そうなんですよ今日は金曜ですけど営業します、とどこかずれた返事をする。ここ廃業したらなにになるんですか、と聞く男に、閉店ですよ、と店主が答える。廃業を決めるまでの葛藤の長さの分か、廃業の日に訪ねる店主の顔はどこもさっぱりしている。寂しさを共有したい常連客と、さっぱりした店主の気持ちが、返事の言葉さえもずらしていく。廃業の日の銭湯の空気。

くまの湯
(銭湯マップ番号 3)
広い駐車場とさわやかな露天風呂が好評です。木曜日は薬湯実施
東京都練馬区田柄5−2−20
営業時間 15:00〜23:00
定休日 金曜
2012年11月30日廃業