断片日記

断片と告知

Y字路

向田邦子を教えてくれたのは、高校二年と三年の同級生だったA子だ。席が近かったのと、下から数えたほうが早い成績が近かったのとで、話すようになったのだと思う。将来文章を書く人になりたい、と言っていたA子は、学校の成績は悪かったがよく本を読み、わたしの知らない作家の名前をたくさん知っていた。おすすめを聞いたわたしに、ちちのわびじょー、と彼女は答えた。酔っ払いが玄関に吐いたゲロを爪楊枝でほじくりだすところがいいのだ、と教えてくれたA子の言葉のどこに惹かれたのか、『父の詫び状』をはじめに、わたしは向田邦子を読むようになった。
高校を卒業したあと、わたしは芸術系の学校に通いながらだらだらと絵を描き続け、A子は看護の専門学校に通いその後看護師になった。A子の勤務先の大きな病院は繁華街の真ん中にあり、A子は病院の上の女子寮に住んでいた。20階くらいだったか、窓を開けるといつでも風が強く、晴れた日には東京タワーや東京湾、夏には神宮の花火が見え、近くのバッティングセンターからは金属バットの甲高い音がよく聞こえていた。歩いてみれば雑多で汚い街だったが、上から見るネオンをまとった街はとてもきれいで、わたしはたまに行くA子の部屋が好きだった。
あいかわらず小汚い格好をし絵を描いていたわたしと違い、働いていたA子は百貨店の金色のカードを持ち、女子寮で生活費が浮いた分、いい服を着、いい食器を買い、いいものを食べていた。高校の教室で頭の悪い生徒がふたり机を並べていた場所から、Y字路のように、少しずつ生活が分かれていくのを感じていたが、どうしてだか、わたしとA子は定期的に会い、酒を飲む仲をやめなかった。わたしには自分と似たろくでなしの友人たちがいたし、A子にも同じように金色のカードを持つ看護師仲間がいたのにも関わらず。A子も不思議に思ったのか、なんでだろうね、とコップを傾けながらよくつぶやいた。金色のカードを持ちながら、いつかは文章を書く、と言い続けるA子の負けん気の、わたしは重石だったのかもしれない、といまになって思う。
あれは二十代の終わりのころだったか。女子寮を出て、西台でひとり暮らしをするA子のアパートに遊びに行った。A子の誕生日を西台の沖縄料理屋で祝い、へべれけの頭ふたつでなにを思ったのか、誕生日ケーキを買いに行こう、と店を出た。零時を回るか回らないかの時間にまともな洋菓子屋が開いているはずもなく、もともと店の少ない西台駅前で明かりがついていたのは、コンビニとチェーンの飲食店だけだった。ミスタードーナツで生クリームがたっぷりはさまったドーナツを買い、コンビニで誕生日用のローソクを探したが見つからず、代わりに仏壇用のローソクを買った。袋をさげてA子のアパートに行き、皿を出し、ドーナツを積み重ね、その腹と頭にローソクをいくつも灯した。重ねたドーナツは傾き、真っ白で色気のないローソクはどう見ても仏壇用にしか見えず、不細工な誕生日ケーキをあいだに、A子とわたしは夜中のアパートでげらげらと笑いあった。ふと気づくと、A子は笑いながら泣いていた。A子はしばらく前に子どもをおろしていた。あの日の誕生日ケーキはいまだに忘れられない、と、思い出したように口にするA子の、忘れられないのはケーキなのか。
いつかは文章を書く、とA子が口にしなくなったのはいつごろからだろう。結婚をし、家を買い、子どもをふたり生みながら看護の仕事を続けるあいだに、A子の口から出る言葉が、いつかは文章を書く、から、わたし人に教えるのうまいみたい、にかわっていった。新人や後輩看護師たちへの指導がうまいのだと言い、それだけに飽き足らず、四十を越えて学校に行き直し、看護教員の資格をとり、A子の母校の専門学校で教えはじめた。A子は、自分の持っている言葉の使い道を見つけたのだ。紙に書くことではなく、生徒たちに教え、伝えるというやり方を。
いまだに向田邦子の名を見ると、豆腐と薬味のように、A子の顔や言葉が浮かぶ。そのときのわたしの頭の中のA子は、高校生の姿のままで、ゲロを爪楊枝でほじくりだすところがいいのだ、と、『父の詫び状』を要領を得ているのだか得てないのだかの説明をするところで、そんなA子が教壇に立ち、生徒たちに教えている姿まで連想し、名前に罪はないが、向田邦子と見るたびにいつも、少しだけ可笑しくなるのだ。