断片日記

断片と告知

固有名詞

年の近い友人たちとの会話の途中、たびたび言葉につまるようになった。ほら、こないだのあれ、えーと、なんだっけ。そんな言葉が会話の途中にいくつも挟まる。作家や有名人の名前、本や映画の題名、店の名前や地名など、友人もわたしも、会話につまづくことが増えてきた。
つまづく友人たちを見ていると、つまづくのはいつもものの名前、固有名詞なのだと気がついた。動詞や形容詞は出てくるのに、どうして固有名詞だけ、脳からすべり落ちるのだろうと不思議に思った。
生まれたときを考えれば、生きていくためにまず必須な言葉は動詞だろうか。そこに形容詞が足され、名詞を覚え、固有名詞を経て、また少しずつ動詞の世界に帰っていく。動詞から動詞のひとときを、ひとの一生と言うのかと考えた。
つまづく友人にその話をすると、でも最近うちの母は動詞さえも代名詞を使う、と反論された。これ、いつもみたいにあれしといて。そうした会話が成り立つ、家族、恋人、近しい友人、長く勤めた職場などの、心地のいい小さな輪を手に入れれば、固有名詞はもちろん、ひとは動詞さえもいらなくなるのか。だとすれば、言葉がすべり落ちていくのは、脳の経年劣化とは別に、この世で居場所を得たひとたちへのご褒美なのか。
つまづく友人に言葉が出ないときのイメージを聞くと、脳の側面を言葉がすべり落ちていく感じ、と言う。わたしは、頭の付け根にある底なしの真っ暗な穴に言葉が吸い込まれていく感じ、と思う。
日中、ひとけのない商店街を歩いていると、ふと、天国ってこんな感じなのかなと思う。明るいのにひとがいなくて、ビニールでできた桜や紅葉の飾りが電柱からだらしなく垂れ下がり、一昔前にはやったようなムード音楽がわれたスピーカーから流れている。反対に地獄を想像すると、血の池や針山ではなく、底なしの真っ暗な穴にどこまでも落ちていく姿が浮かぶ。
わたしは頭の付け根に地獄を飼っている。この世に居場所を見つけられなかったわたしの言葉や身体は、やがてその真っ暗な穴へと帰っていく。