断片日記

断片と告知

隣りの引越

こんにちは。こんにちは。彼女は洗濯ものを干しながら、わたしは鍵穴へ鍵を差し入れながら挨拶をかわす。いつもはそれだけで終わるはずが、今日、彼女は口ごもりながら先を続けた。
あの。転居するの。
彼女は引越先の町の名前を言ったようだが、小さな口からくちゃっと出た言葉を聞き取れなかった。
いつですか。
明日。
引越の前日も洗濯ものを干すのかとおかしかったが、雨の日も、風の日も、屋根のある廊下兼物干しに、彼女は洗濯ものを干し続けてきた。わたしが彼女と言葉をかわすのは、昼間、わたしがアトリエとして借りているこのアパートを訪れたとき、彼女が洗濯ものを干しているかしまっているか、夜、わたしが自宅へ帰るとき、開けっ放しの戸の向こう、ガスも電気もひかない真っ暗な部屋でぼんやり座る彼女と目があったとき、だ。こんにちは。さようなら。それだけの二年間だった。
洗濯ばさみを持たない彼女の洗濯ものは、よく風に飛ばされていた。彼女は洗濯ものをただ竿に引っ掛けたり通したりするだけなので当たり前だった。何度も飛ばされ、しかし洗濯ばさみを買う気配を見せず、ある日見ると、洗濯ものはビニールの紐でゆるく竿にくくられていた。ゆるく十字にくくられた洗濯ものは、それでも時たま風に飛ばされ、廊下に醜く散らばっていた。戸の前に散らばる彼女の洗濯ものを拾い、廊下に飛び出た彼女の靴箱にひっかける。たいして知らない隣人の肌着は、乾いていても湿ったように、手より気持ちに重いような気がした。
毎日毎日くくるのは面倒ではないのか。100円ショップで洗濯ばさみを買ってくれば済む話ではないのか。ガスや電気もない暮らしで食事はどうしているのか。隣りの部屋からは音も匂いも漂ってこない。毎日毎日洗濯ものを干し、夜はぼんやり座って過ごす女が、暗闇のなかで、なにを思って暮らしているのかを知りたかった。
こっちですよ。
唐突に、隣りの窓から路地へ向かって声が響いた。アパートに人が来る気配はなく、しばらくして夕立が、薄い屋根を叩きはじめ、去っていった。彼女の大きな声を聞いたのは、この二年の間、これがはじめてで最後だった。
その日、陽がある時間にアパートを出ることにした。隣りの開け払った戸のむこう、畳に膝を崩して座る彼女に声をかけた。
お元気で。
声をかけるふりをして、わたしは彼女の後ろに広がる部屋を見た。奥の流しと畳の部屋とをわける安っぽい化繊のレースのカーテン。古い箪笥が二棹。箪笥のうえにどこかで拾ってきたような熊のプーさんやフランス人形、おかっぱ頭の日本人形がいくつか、と小さな仏壇。戸や窓の桟から、七夕で見るような折り紙でつくった輪っかが垂れ下がっている。畳のうえには白いポリ袋が小さく丸く膨らみ、川魚の産卵のようにいくつもいくつも散らばっている。
西日の射すなか、髪をまとめた彼女の顔は美しく見えた。鮮やかな緑色のポロシャツに白いジーパンも似合っている。ただこの部屋と、ガスも電気もひかない暮らしと、七十を越す女の年齢とがちぐはぐだった。
明後日になったんですよ。引越。
明日も明後日も、わたしはこのアパートに、彼女がいる時間にいるかどうかわからない。いま聞かなければ、彼女はわたしの前から逃げていく。
どうしてガスも電気もひかないんですか。
返事はあっさりしていた。
だって大変でしょう。お金。でもこんどのとこには電気はあるのよ。
彼女はどこか誇らしげに答えた。
隣りの引越の日、昼過ぎにアパートへ行くと、路地の途中で運ばれていく彼女の箪笥とすれ違った。アパートの入り口には、人形たちの頭が飛び出た、蓋の閉まらないダンボールがいくつか。引越屋がもうひとり、彼女の部屋と路地とを行き来している。
雨、降らなくてよかったですね。
わたしは彼女に声をかけながら、次の明かりのある部屋での、彼女の夜の過ごしかたを想像していた。