断片日記

断片と告知

猫の歳月

路地の奥に建つ風呂なしアパートをアトリエとして借りてから三年と少し経つ。路地と空き地と古い家が建ち並ぶこの辺りには、人だけではなく、人の暮らしの隙間に猫がたくさん住んでいる。野良も首輪をまいたのも、車も人ものんびりしていると知っているのか、路地のあちこちでこの町の主のような顔をして歩きまたは伸びている。
人とすれ違うより猫とすれ違うほうが多い日もある。アパートの階段をのぼったさきで出会い頭に猫と会う。家々の軒先で涼んでいる猫を見る。路地と路地をつなぐ石段の、人に踏まれそうな場所で伸びている。三年と少しもいれば、顔馴染みというよりすれ違い馴染みの猫も増える。が、伸びているくせにこちらが手を伸ばせば逃げていく。
ある時、アパートの戸を開け払い、上がり框に腰掛けながら外を見ていた。隣の彼女ではないが、戸を開け払ったさきに見える、平屋のうえに広がる空の広さが気に入っている。廊下兼物干しに突き出た靴箱のうえでは、海で拾った石を三つ、洗って干して乾かしていた。とてとてとてと軽いものが、アパートの階段をのぼってくる気配がする。見ると、階段のてっぺんから、首輪をまいた大きな茶トラがこちらを見ていた。
すれ違い馴染みの1匹だった。何度も手を伸ばしては避けられていた大きな茶トラが、今日はとてとてとてと近寄ってくる。海の匂いにひかれてなのか、靴箱のうえに並んだ石を眺め、開け払った戸の前を行ったり来たりこちらを伺う。伸ばした指の匂いをかぐと撫でてもよいと体までよこし、さらには上がり框に手をかけアパートのなかをのぞき見る。三年ものあいだ散々逃げていたくせに。唐突な猫の媚態を責めながら、アパートから締め出せない半端な気持ちは不貞をなじる恋人みたいだ。
その日から、路地で会うと茶トラのほうから寄ってくる。近寄ってくるばかりか、茶トラと仲のいい野良たちも寄ってきては体を撫でさす。まるでこの路地の猫たちに、あいつは無害だと回覧板が回ったみたいに。
人にとっての一年が、猫にとっての五年も六年にもなるのなら、すれ違うだけのわたしを認めるまでの三年と少しの、猫の歳月に気が遠くなる。
アパートからの帰り道、茶トラを撫でていると、路地のさきにあらわれた人影を見て猫らが逃げる。
どうも、僕は猫に嫌われているらしくて。
逃げていく猫を見て、申し訳なさそうに人影がしゃべる。
わたしもはじめはそうでしたよ。
人影に答えながら、認められるまでの猫の歳月は教えなかった。