断片日記

断片と告知

女優たち

女優の本ばかり読んでいる。高峰秀子さんの「わたしの渡世日記」を読み、沢村貞子さんの「貝のうた」を読み、そして今、また高峰秀子さんの「にんげんのおへそ」を読んでいる。女優さんの書く文章は、おもしろい。赤裸々で、思い切りが良くて、あけっぴろげ。映画撮影所という奇人変人ばかりの世界で生きてきたからだろうか。
その変人ばかりの撮影所のエピソードを書いた「おへそ」(にんげんのおへそ、収録)という章がおもしろい。あまりにおもしろいので、その中の黒沢明監督の話を抜粋。
 次は、社外では黒澤天皇、所内では「クロさん」こと、黒澤明監督です。
 作品名は「用心棒」(昭和36年)。場所は、撮影所内に作られたオープンセットでした。からっ風にほこりの舞いあがる宿場町で、用心棒に扮した三船敏郎さんと、首にタータンチェックのマフラーを巻いたニヒルな卯之助、仲代達矢さんの、死闘のシーンです。
 設定は、どんよりと曇った、風の強い夕方です。
 最高の見せ場なので、オープンセットには朝早くから何台ものライトが設置され、照明サンたちが走りまわって綿密な「灯入れ」(ライティングのこと)が行われます。カメラが据えられ、マイクが吊られ、俳優サンが定位置につき、テストがくりかえされます。と、カメラのファインダーをのぞいていた黒澤監督が、とつぜん歩きだし、ツカツカッと二十キロライトに近づいて、両手でグイ!とライトの首をひねって角度を変えました。
 ビックリしたのは照明技師の、「長さん」こと、石井長四郎サンです。長さんは、その技術も超一流ですが、ヘン人度も超のつくAクラスで、いったんヘソが曲がったら、ヘソは際限なく移動して、背中のほうにいってしまうという人ですから、ライティングに手出しなどされて黙っている筈がありません。いえ、長さんは黙ったまま、クルリと踵をかえして歩きだし、撮影所の門を出てサッサと自宅へ帰ってしまったそうです。
 クロさんは、「文句あっか!」といった顔で天の一角を睨んだままですが、照明技師がいなければ、撮影続行は不可能です。当然のことながら大さわぎとなり、制作主任その他が長さんをお迎えに、撮影所の門を出ました。
 何時間かの後、長さんはようやく現場に姿をみせ、クロさんはぶすっとした長さんを一喝しました。
キチガイ!」
 長さんが、間髪を入れずに怒鳴りました。
キチガイはお前だ!」
 会話はその二言のみで、撮影はつつがなく続行されたそうです。
以上です。その場にいたら凍りつきそうですが、高峰さんが書くと、なんだか可笑しいです。