断片日記

断片と告知

ダボちゃんの話。

26日の午前中の話。
お昼前、玄関の前に立つ1人の紳士。どちら様で、と訊ねると、以前こちらに下宿していたものです、と。隣りのおばさんの顔がその紳士の後ろから覗き、「ダボちゃんよ、お茶出すのよ」と言って去っていく。下宿をやっていた祖母が亡くなっていたことは知っていたが「ヨッチャンまで」と父の死を知って仏壇に手を合わせてくださる。
私が中学生のとき、家を建て替える前まで、我が家の2階は下宿屋だった。ダボちゃんは、私が生まれる前、昭和42年から46年までの4年間と半年、この下宿に住んでいた。東京の大学に受かり、北陸から東京に出てきて、はじめは茗荷谷の県人寮に住んでいた。ある時、同郷の同じ高校の兄弟がこの下宿にいるのを知り、遊びに来る。そして気に入り、部屋が空くのを待って入居する。そんな風にして北陸の同じ高校出身者が下宿には何人かいたようだ。はじめの2年間は賄い付きだったが、お手伝いのお姉さんが結婚退職し、人手もないので、祖母は一時、下宿をやめる気だったらしい。賄い無しでもいいから続けてよ、と訴えたのはダボちゃんたちだ。賄いなし、掃除と洗濯付き、となって下宿はその後15年くらい続くことになる。あんな下宿なかったよ、とにかく千代ばあちゃんが凄かったよ、人を集めるのが好きで、楽しいことをするのが好きで、と祖母の話が続いていく。ちょうど70年代はじめ、髪を長く伸ばす若者が町に増えだした頃、祖母は、あんた達は親御さんから預かっている大事な人たちなんだから長髪なんてダメだ切れ!、と言って下宿人の長髪化を防いだ話。夜中遅くまでごそごそやっていると、早く寝ろ!と下から怒鳴られた話。土曜日だけは麻雀が許可されていた話。洗濯ものをためると、早くだせ!、と怒られた話。鬼子母神のお祭のときは、寿司をとってみんなに振舞った話。賄いがなくなってしばらくした後、ダボちゃんだけが夕飯に呼ばれていた話。食べ終わった後も、父とテレビのある部屋で寝酒しながら11PMを見ていた話。下宿のみんなと父で、白馬に登りに行った話や、東京湾にハゼ釣りに行った話、隣りの子どもを連れてとしまえんに行った話。下宿屋をする前、祖母が小料理屋のようなことをしていた話。6大学野球の選手もよく来ていたよ、有名な選手も来ていたよ、とダボちゃんは教えてくれる。お茶も出さず、仏壇の前で聞く、私の知らない祖母と父の姿。あの頃、下宿にいた人たちを訪ね歩いて、もっとこの話の続きが聞きたい。