断片日記

断片と告知

夕べの雲

本屋で働いていた数年前のこと。店の裏にある業務用エレベーターで1階から6階までの移動中に、1階から4階まで乗り合わせた彼女。読書家で、いまはやめてしまったが、書評対決のサイトの運営もしていると聞き、悪い癖だと思うのだが、そんな人にはつい聞いてしまう。お薦めの本は、と。この質問ほど、自分がされて嫌な質問もないのだが、どうしても口から出てしまうことがある。
うさぎのミミリー、いやはじめて読むなら夕べの雲かも、と彼女がつぶやく。うさぎのミミリー?夕べの雲?4階ですたすたと降りていく彼女の背中を見ながら、放り出された私は、休憩時間に3階の文庫売場に行き、講談社学芸文庫から出ている「夕べの雲」を買う。だいぶ遅い、庄野潤三との出会いだった。
夕べの雲」は面白かった。多摩丘陵の丘の上に越してきた家族が、家の周りに風除けの木を植えることから、物語ははじまっていた。丘の上で暮らす家族の、淡々とした暮らしの話がなぜこんなに面白く読めるのか、不思議だった。丘の上で暮らす家族の話には続きがあり、本屋で、古本屋で、図書館で続編を探し、年代順に読んでいった。「うさぎのミミリー」は、その続編のうちのひとつだということもわかった。本の中で、丘を駆け回って遊んでいた子供たちは成長し、結婚し、子どもが生まれ、大人たちは少しずつ老いていった。みんなで宝塚を見て、銀座で食事をし、誕生会をし、プレゼントが届き、そして最後にはいつも、ありがとう、と書かれていた。この何度も繰り返される、ありがとう、が好きだった。
小田急線に乗ると、車窓からは多摩丘陵が見える。庄野潤三が住んでいるのはどの丘だろうと、見えるわけもないのに、いつもぼんやり探していた。
先週、新聞で、庄野潤三さんの訃報を知った。「夕べの雲」からはじまる丘の上の家族の話を、また久しぶりに読んでみようと思う。