断片日記

断片と告知

中平卓馬とニューカヤバ

先週のこと。
中平卓馬の写真を見に行かない、と王子を誘う。池袋から有楽町までの地下鉄の中、王子が、なんで中平卓馬なんですか、と聞く。死んでいる人じゃなく、いま生きている人の写真が見たかったから、と答える。中平卓馬を選んだのは、ちょうど銀座と清澄白川の2箇所のギャラリーで写真展がおこなわれていたから、誰かが面白いとつぶやいていたから。写真を撮る人、急性アルコール中毒で倒れたあと記憶をなくした人、そのふたつだけしか、中平卓馬については知らない。
王子が調べてきてくれた頼りない地図を頼りに、銀座を歩く。最終日の村越画廊で金井久美子展「猫の一年」を見て、移転後まだ訪ねていなかった画材屋・月光荘で8Bの鉛筆を買い、キャバレー「白いばら」、手動エレベーターが有名な奥野ビル、を見て歩く。白いばらも奥野ビルも、建物が面白い場所に来ると、横を歩いていたはずの王子の姿がすっと消える。ね、いいでしょ、と同意を求めて横を向くと、王子は道の反対側の端までずずっと下がり、建物全体を眩しそうに見上げている。そうやって真面目に街を見ていたかと思えば、「銀座ハゲ天」と書かれた天ぷら屋の看板を指差し、ムトーさんあれなんて読むんですか、とうれしそうに聞いてくるので頭をひとつはたく。
銀座2丁目のBLD GALLERYで中平卓馬写真展「Documentary」を見る。白い「コ」の字型の壁に沿って、2段組のカラー写真が隙間なく貼られている。岩、看板、屋根、植物、水鳥、猫。そこらへんにあるものに、近づいて、そのまま写しただけ、に見える。それなのに、何かの気配が色濃く漂う。わからない、どうしてだろう、と思いながら、中平卓馬を選んだのは、こういう気持ちがいま味わいたかったからか。
銀座から茅場町まで歩き、森岡書店をのぞき、そこから清澄白川まで歩く。隅田川に架かる永代橋を渡る。昨年の秋、王子と浅草からお台場まで水上バスに乗ったとき、船の上から見えた中洲の高層ビルが、橋の上からもよく見える。高層ビルを真ん中にして、大きくふたつに分かれる川を見て、どっちに行ったんでしたっけ?と王子が聞く。右の方じゃない。何度も水上バスに乗っているわたしが答える。橋の上から見える、ムトウ、とカタカナで書かれた看板を、王子が黙ったままうれしそうに指差す。川沿いの遊歩道を清澄橋まで歩く。風もなく、思ったよりもずっと暖かい。
清澄橋のすぐ横、倉庫の中にあるシュウゴアーツで中平卓馬写真展「Documentary」を見る。タイトルも飾られている写真も、銀座のBLD GALLERYと同じだが、その中から20数点に絞り、サイズを大きくし、1枚1枚離した状態で壁に貼られている。切り離された1枚ずつを見ていくと、写真の不思議さわからなさは増すが、ぎゅうと漂っていた何かの気配は薄くなる。
なかなか来ない業務用エレベーターを待っていると、下からあがってきた箱の中から、ふいに中平卓馬がおりてくる。赤いキャップ、赤いダウンジャケット、赤いスニーカー、細身のジーパン、肩からカメラがさがる。すっと目の前を通り過ぎ、自分の写真展の会場に入っていく。思わず王子の腕をつかんで顔を見る。
下りのエレベータが来るまで、エレベーターの扉の前から、中平卓馬を見続ける。小さくて、細い人。口をもぐもぐさせている。平坦な表情で、自分の写真を眺めている。腰ではいている細身のジーパンが、やけに格好良く見える。
清澄橋を渡りながら王子が言う。ね、ショートホープって書いてあったでしょ。後ろ前にかぶった赤いキャップには、白い英字のワッペンでSHORT HOPEと、確かに書かれていた。
川沿いをまた茅場町まで歩き、森岡書店の数軒先にある立ち飲み屋、ニューカヤバ、に入る。民家の1階をぶち抜いて作ったような駐車場の奥に、縄のれんが下がっている。知らなければ、赤提灯がさがっていなければ、通り過ぎてしまうような店だ。駐車してある車の横を抜け、縄のれんを分けて、引き戸を開ける。外からは想像できない広い店内には、真ん中に立ち飲みの丸いテーブルがいくつか、左手に酒やつまみが買えるカウンター、右手に酒の自動販売機がある。テーブルに陣取り、カウンターで生ビールとつまみの小鉢をいくつか買う。
飲みながら、ゆっくりと店内を見回す。気になるのは、右手の壁の、酒の自販機。焼酎が三種類、泡盛、日本酒、ウイスキー、と並んでいる。生ビールを2杯飲み干してから、焼酎を買う。コップを自販機に差し込み、100円を入れると、からん、と軽い音がして、コップの三分の一に透明な液体が溜まる。置いてあるポットからお湯を注ぎ、お湯割りにして飲むことができる。もちろん、そのまま飲んでもいい。王子はウイスキーを100円でころんと買い、カウンターで氷とサイダーを買い、ハイボールにして飲んでいる。
店の一番奥に、炭火の入ったテーブルがある。カウンターで買った焼き鳥は、ここで自分で焼いて食べることができる。焼き鳥、つくね、砂肝。少しずつ焼けていく自分の焼き鳥と炭火から、目が離せない。ひっくり返す、じっと見る、ひっくり返す、じっと見る。炭火のテーブルには、塩、山椒、甘辛いタレ、と調味料が並び、味も自分の好きに出来る。焼き鳥と砂肝は塩、つくねはタレ、最後に山椒をふりかけて頬張る。自分で焼いた焼き鳥が、こんなに美味しいものだとは知らなかった。
この店に入ってから、わたしの顔はずーっと笑っている。良い店だね。酒をころんと買うたび、つまみを食べるたび、焼き鳥を焼くたびに、わたしの口からそんな言葉が勝手に出る。夕方まだ空いていた店内は、日が落ちたいま、スーツを着た人たちでぎっしりと埋まっている。ほど良い声で話し、ほど良い声で笑い、酒を飲んでいる。良い店だね、また同じ言葉から口から出る。