断片日記

断片と告知

余寒見舞い

プリントゴッコで、余寒見舞い申し上げます、を作りたいと、はっちこと橋本くんがアトリエにやって来る。窓際の流しで、指先のオイルパステルを洗い流し振り返ると、20代にしては白く突き出た腹を見せながら、橋本くんが真新しい黒のスエットに着替えている。プリントごっこはそんなに汚れないと思うけど。わざわざ作業着用に買ってきたらしい黒の上下を眺めながら言う。
プリントゴッコは、マスターと呼ばれるシートに孔を開け、そこから絵の具を押し出して印刷する、という家庭用の印刷機だ。シートはカーボンに反応して孔が開くため、コピーした原稿ならば、写真でも絵でも文字でも印刷できる。橋本くんのもってきた原稿は、昨春、「HB」の取材で北海道に行ったときの一枚、宗谷岬で撮った写真を線画に加工したものだった。財布をなくしたり、リュックごと電車に置き忘れたりした、ほぼ1年前の橋本くんが、ヒゲ面で日本最北端に立っている。
何色にする?プリントゴッコの絵の具を広げ、印刷する色を選ばせる。一色で刷れば無難なものを、黄色、ピンク、紫と、何色か選び、版の上でかき混ぜて印刷している。プリントゴッコ・ハンドブックに、流線技法という名で紹介されていた刷り方で、うまく刷れば絵の具がマーブリングのようになる。出来た葉書は余寒見舞いというにはあまりにも奇妙で、これじゃ出せない、と大学時代の先生の名をあげ、池袋駅のパルコにまで、また紙を買いに出かける。
何を思ったか、今度はピンクと紫の間、駄菓子屋のグレープジュースのような色をした紙を買って戻ってくる。何で白い紙じゃないの?わざわざ色が合わせにくい紙を買ってくる気持ちがよくわからない。マスター・シートも買ってきたので、また一から製版しなおす。余白の部分に文字を入れたらと言うと、アトリエの座布団にちんまりと座り、余寒お見舞い申し上げます、と書きだす。余の字が大きく、寒の字が小さく、お見舞い申し上げますは、かすれてもっと小さい。
文字を入れたものを製版しなおし、絵の具も文字は緑色、宗谷岬は紺色と、今度は無難な色を選んでいる。試しにまず白い紙に印刷し、そのあと本番の怪しいグレープジュース色の紙に印刷すると、ゴミ箱に捨てた試しの白い紙をじっと見ながら、やっぱり紙は白いほうがいいですね、と言い出す。橋本くんは、近くの文房具屋に、今度は白い紙を買いに出る。
ただの白い葉書きなら世界堂じゃなくても売っている、と近くの文房具屋をすすめたのはわたしだが、買ってきた紙をビニールから出し、今度は薄い、と文句を言い出す。これだと貰ってもくしゃっとしちゃう、と手の中で紙を握りつぶしている。文句は言いながらも、しかし印刷はする。マーブリングの橋本くんが数十枚、紺色の橋本くんが数十枚、ヒーターの風になぶられて揺れている。
ムトーさん明日は何をしてるんですか。またアトリエにいると思うけど。マーブリングも、紙の薄さも気に入らない橋本くんは、どうやら明日も、プリントゴッコをしに来るらしい。
腹が減ったので、豊田屋に飲みに行く。生ビールと、塩さばの串焼きがうまい。橋本くんはホッピーを飲みながら、読んだばかりだという、市橋容疑者の逃亡記の話をしている。
往来座に寄り、瀬戸さんと王子の仕事の邪魔をしてから、高田馬場に行く。早稲田通りと明治通りの交差する辺りに出来た、謎麺、と書かれたラーメン屋が、気になっていたからだ。窓には黒いシートが貼られ、通りから店の中は全く見えない。謎麺700円、とだけ書かれた紙の載る譜面台が、道にぽつりと置かれている。思い切って扉を開けると、謎麺のボタンが並ぶ券売機がある。1枚買って、券売機の後ろにひかれた黒いカーテンをくぐる。ラーメン屋と思えない、真っ暗な空間に、ロウソクの光が揺れている。暗くて顔もよく見えない店員さんに券を渡し、クラッシック音楽の流れる中、ラーメンが出来上がるのを待つ。客は、わたしと橋本くんのふたりしかいない。
ふたりしかいないわりに、時間をかけてラーメンは出てくる。暗くて、何の具が載っているかもよくわからないが、その分、味には集中する。ごついチャーシューの固まりはなかなか美味い。ネギの代わりに載っている玉ねぎのスライスは、ここのスープに以外とよく合う。食べ終わるころ、ラーメンのスープを飲み比べてみると、橋本くんのはしょう油味、わたしのは塩味だった。ずるい。わたしの食べた塩味のラーメンのほうが美味しいと、また橋本くんに文句を言われる。