断片日記

断片と告知

ドミソラーメン

穂村弘『短歌の友人』で紹介されていた馬場あき子の短歌。
都市はもう混沌として人間はみそらーめんのやうなかなしみ
寒くなった最近、食堂では味噌ラーメンの注文がぐっと増えた。温かければどんなで麺でもいいと思うが、不思議と味噌ラーメンが好まれるようだ。ラーメンどんぶりに味噌ダレを一杯分入れスープでとかす。湯がいた麺をそっと入れ、もやしとネギをのせ、つぶつぶコーンをうえに散らす。茶色く濁った味噌スープのうえにこの黄色いつぶつぶコーンを散らすとき、わたしはなにかに対して祈っているような心持ちになる。
示し合わせたように、タンメンばかり出る日、チャーシュー麺ばかり出る日があるのも不思議に思う。雨天晴天ではなく、気温や寒暖差、湿度に関係があるように思うがよくわからない。数年分の食券と天候の統計をとれば飲食店用の天気予報ができあがり、食材の無駄を減らせ十分な仕込みができ便利ではないかと思うがそんな天気予報があらわれる気配はない。明日の東京は気温は例年並み湿度は低め、揚げ物がよく出るでしょう、などとなると、町中の定食屋の日替わりがフライ定食だらけになり、それならうちは刺身定食でいってみようかなどと裏を行く店もあらわれ、結局たいした役に立たずに終わるからかもしれない。
汁なしの油そばは寒い日も暑い日も天候に関係なくいつでもよく出る。油そばのタレはほかより油分が多いからか、寒くなると白く濁って固まりだす。麺を茹でる釜のそばにタレの入った容器を置き釜から出る湯気をあてる。しばらく放っておくと油がとけ下に濃い醤油のタレ、上に透明な油の二層にわかれる。この二層にわかれた透明な油を見るのがなんだか好きだ。
カレー、カツカレーも天候に関係なく出る人気の品だ。平皿の半分に飯を平たく盛りカレーを大きなおたま一杯分かける。皿のふちにカレーをこぼさず盛れると気分がいい。カツカレーのときはカツのうえにカレーを少しかぶるように盛るとそれらしく見えてさらにいい。
業務用の巨大な食器洗浄機はベルトコンベア状で、さっぱりと洗われた食器たちを出てくるそばから食器乾燥用のかごに収めていく。コップなら縦に6個、湯のみなら縦に16個、汁椀なら縦に13個はいる。すべて洗い終わったあとかごにぴたりと収まるとこれもまた気分がいい。こうして考えてみると、はたから見たらそんなことでと思うなかに、些細ないい気分を見つけられるかどうかで、仕事の向き不向きが決まるような気がする。
最近の大学の傾向なのか、わたしの通う大学だけなのかわからないが、しゃれた名前の定食がいくつかある。それならいっそよく出る味噌ラーメンをドミソラーメンとしゃれてみてはどうかと提案したが、食堂中から却下される。この話を食堂以外の友人たちに話すと、ドミソラーメンすげーいいじゃん、と喜ばれるのでなぜ却下されたのか、食堂と食堂以外の友人の温度差がいまだに腑に落ちない。知人のひとりはドミソラーメンと名乗るならド級の味噌ラーメンでなくてはいけないと言い張り、ド級、超ド級、の語源が日露戦争のころのイギリス海軍の戦艦ドレッドノートの巨大さからきたことばだといまさらながら知る。しかし大盛りはすでにあるのでド級の味噌ラーメンがどんなものなのか思いつかない。
油そばほどではないが、醤油ラーメンもタンメンもタレの容器のなかで油の層とタレの層とで分離している。二層をよくかき混ぜ小さなおたま一杯分をラーメンどんぶりに取るが、かき混ぜかたによってどうしても油が多いとき、醤油塩タレが多いときが出る。タレをとくラーメンスープの量も、麺を湯がく時間も、時と場合でほんの少し多くなったり少なくなったり。そうしてみると、いま作っているラーメンの味はいましか食べられないたった一度のラーメンの味になる。おいしいときも、そうでないときも、目の前に置かれたただのラーメンに二度と同じ味はないのだ。
接客の仕事は便所にいく時間さえ気を使う。客の様子を見て断りを入れて便所にたつ。便座に腰掛けたまっていた尿と同じ細くて長いため息をつく。食堂の閉店時間まであと1時間。あと1時間分の味噌ラーメンにあと1時間分のつぶつぶコーンを散らしていくのだ。本屋で警備員にどなっていたオヤジに、うんこを同じ道で二回続けて踏んだ知人に、捨てられていた本棚に、胃腸炎の子どもに、子宮筋腫で死んでいった友人に、わたしの作る味噌ラーメンがどこかで誰かにつながっていく。
都市はもう混沌として人間はみそらーめんのやうなかなしみ