断片日記

断片と告知

本の背中

ときどき知人の古本屋の手伝いをしている。主な手伝いは買取で、古本屋とともに客の家に車で出向き、客が売りたいという本の版型を揃え、縛りやすい高さに積みなおし、縛られた本の山を車に運び込んでいく。単純な力作業だが本の量が多いときは重宝がられてよく誘われる。
その日、食堂のアルバイト帰り、いつものように知人の古本屋に顔を出すと、昨年亡くなった友人の家から買取依頼が来たと、店主が言った。
友人の家まで、小さな川を四本、大きな川を二本越えて行く。東京の東側は川と川に挟まれどこまでも町が平らに続く。生前、友人がやっていたブックカフェに古本の納品に行くときも、この道を車で走った。台風と重なった日は道路にも水があふれ、運転するのが怖かった。あれはこの辺りだっけ、と何本目かの川のあいだで運転席の古本屋がつぶやく。
路地の突き当たりにある三階建てが友人の家だ。玄関横の駐車場には子どもたちの小さな自転車と一輪車が並ぶ。玄関の扉が開くとともに、飛び出すように末っ子の女の子と犬が顔を出す。腹に抱えられ伸びた犬の肢体と、女の子の背丈がそう変わらない。あげてもらった二階の台所兼居間の出窓に、小さな仏壇と友人の写真が飾られている。写真のなかの友人は、目尻が垂れたなじみの笑顔だ。
今日は一階にあふれた本をと言われ、一階のこたつの部屋に通される。こたつの向こうの壁に、わたしが描いた赤いりんごの表紙の『スペクテイター』のポスターが貼られている。友人と最後に会った夏、りんご売りの記事にはずいぶん励まされたと、共通の友人から聞いていたわたしが土産に手渡したものだ。あぁ、どうも。丸めた包みを開きもせず、やけにあっさり受け取られ、飲み屋の椅子に放って置かれたポスターが、額装されてこちらを見ている。
三段のカラーボックスひとつ、とそこからあふれた本を少し。家に残すものと買い取るものに分けていく。よそ者が珍しいのか、人見知りをしない犬が、仕分けの手と本にじゃれてくる。この子がうちに来たのもなにか意味があると思うんですよね。犬を飼いはじめたのは、友人が余命六ヵ月と告知される、ほんの少し前だった。
一階の仕分けが終わり、三階の本棚の部屋を見せてもらう。友人の口からよく聞いていた、好きな作家、大事な本だけを入れた棚が壁に沿って三本並ぶ。岩波文庫のかたまり、講談社文芸文庫のかたまり、思想哲学系を中心に、戦後派から「第三の新人」と呼ばれる作家の小説と、応援していた現代の作家たちの本。
残してくれた本を読もうかと思ったんですけど難しくて。お母さん、地震で本棚倒れてきたらあたし死んじゃうよ、なんて、子どもたちは平気でそんなことを言うんですよ。
三本ある本棚を一本にまとめましょうか、と提案し、気持ちの整理もあるからと、一ヵ月後の再訪を約束した。帰りの車のなかで、犬に一番じゃれつかれていた古本屋が、あの犬、探している気がした、と亡くなった友人の名前を口にした。
約束の一ヶ月後、また川を越えて友人の家に向う。三階の本棚の部屋に通され、本を仕分けているあいだ、今度は人も犬も一度も見に来ることがなかった。どうやって一本に縮めようか。古本屋と友人の残した本棚を見つめる。敬愛していた鶴見俊輔木山捷平の全集。上林暁の箱入り。交流のあった上原隆、星野博美。生まれ変われるなら今度はこういう生き方がしたいと言っていた荻原魚雷。これなら子どもたちも読めるだろうと分厚い文藝春秋版『まんが道』。棚に残していく本の背が、そのまま友人の背中のようだ。
どうにか本棚一本分にまとめ、よけた本を縛りまたは箱に入れ、終わりましたと二階の家族に声をかけた。一本分に詰まった本と、空いた二本の本棚を見つめ、しばらく何も言わなかった。やっと開いた口が、ずいぶん寂しくなっちゃった、と小さくもらした。
友人が書いていたブログをすべてプリントアウトしたという、分厚いファイルが二冊出てきた。ファイルをめくりながら、あがる書名を追いかけて、縛った本をまたほどき、箱につめた本をひっくり返す。家族で沖縄に住んでいたときあっちの古本屋で買ったと言う『多情多恨』。家でずっとこの背表紙を見ていたというカポーティのシリーズ。ふたりのはじめてのデートの日、友人が抱えていたという『存在の耐えられない軽さ』。
タイトルがタイトルだから、なんなのって思っちゃって。デートのときはいつも本を持って来てたなぁ。
あ、この本。『チャリング・クロス街84番地』大好きで、お棺に入れてって言われてて、あの日あんなに探したのに見つからなくて、それがどうしてここにあるんだろう。惜しくなったのかもしれませんね最後になってやっぱりって、そう言うと、読んで欲しいってことなのかな、と細い指がいつまでも、本の背中を撫でていた。
縛りなおした本を車に運び入れ、また二階に声をかける。ヒーターを出したらその前から動かなくて、とテレビゲームに興じる子どもたちの横に犬が並ぶ。真ん中のお兄ちゃんが少年野球の道具を背負って帰ってくる。食卓の周りは子どもたちと犬とで絶える間もなく賑やかだ。その様子を、出窓に置かれた友人の写真が見つめていた。

雑司ヶ谷番外地

雑司ヶ谷で生まれ育ったわたしの、知らない雑司ヶ谷を知る人たちがいる。鬼子母神通りで開催される古本フリマみちくさ市で知り合った、石丸元章さんとピスケンさんだ。石丸さんは自身の薬物使用体験を基にした私小説『SPEEDスピード』や、ハンター・S・トンプソンの『ヘルズエンジェルズ』の翻訳など、少々怖い世界を中心に幅広く活動しているライターだ。
ピスケンさんは本名を曽根賢といい、ドラッグ、刺青、人体改造や死体まで、幅広いカウンターカルチャーを取り上げた雑誌『BURST』の元編集長で、いまは作家として、自身が発行する冊子『The SHELVIS』に小説を発表している。
このふたりがなぜか雑司ヶ谷に、それも路地を挟んでお向かいに住んでいる。鬼子母神へ向かう参道の入り口に、七曲がり、と呼ばれる車一台も抜けられない路地がある。その中ほどの一軒家に石丸さんが、向かいの風呂無し共同便所のアパートにピスケンさんが住んでいる。先に住みはじめたのは石丸さんで、ピスケンさんの引越し当初、あまり近寄らないように、と大家さんに釘を刺されたお向かいが、旧知の石丸さんの家だった。
わたしは一度、石丸さんの家にお昼をよばれたことがある。外からは普通の一軒家に見えたが、よく見ると玄関の表札の脇に蝉の抜け殻がいくつもいくつも貼られている。扉を開けると、グラフティのような絵で壁が埋めつくされ、棚にはごつい革製品やよくわからない器具、現代美術の作品のようなものまでみっしり置かれている。アメリカかどこかのヒッピーの家に迷い込んだような、しかしその中で出されたお昼は、石丸さんお手製のカレーとお好み焼きだった。うまいでしょ、と高校生の男の子みたいな顔をして笑っている石丸さんの袖口から、びっしり彫られた刺青がのぞいている。鮮やかな腕を触らせてもらうと、墨の感触も毛の感触も、何もなかった。
夜深い時間まで飲んだ帰り、ときどき暗い顔をした石丸さんを見かけた。うつむいたまま都電の踏切を越えてどこへ向かっていくのか。そうして雑司ヶ谷を踏んでいく石丸さんに、わたしは声がかけられない。
数年前に石丸さんは雑司ヶ谷を出てしまったが、ピスケンさんは変わらずアパートに暮らし続け、雑司ヶ谷での日々はブログ鬼子母神日記に詳しい。6畳一間の窓辺には薬味のプランター、隣りの庭ののびた枝から落ちる八朔の実、池袋西武の屋上や雑司ヶ谷霊園で一杯やるときに持っていくつまみや弁当、胸に挿していくクレソンの葉っぱ。連続飲酒や膵炎、黄疸のような膿んだことばのなかに、量や値段まで細かく書かれた食べものの話が色鮮やかに踊っている。ときどきブログの更新が止まるのは、病んだ体と糠床にさえ何もなくなる暮らしのせいだ。
先日、鬼子母神の御会式で集まり飲んださい、体を寄せてきたピスケンさんに耳元でささやかれた。金、貸してくれない?3千円でいいから。向井くんには手持ちがないからって断られちゃってさ。飲み会に来ている数十人の中で、もっとも金のないふたりにどうして声をかけてくるのか。だからこそかけられるのか。何かに負けて財布を開く。今度会ったときに返すから、と右の耳にピスケンさんの唇が触れる。
私が生まれ育ったこの町と、石丸さんとピスケンさんが暮らす、暮らしたこの町が、同じ雑司ヶ谷なことがとてもうれしい。知ったつもりでただあぐらをかいていただけのこの町の、知らない扉をふたりに開けてもらおうと思う。
ピスケンさんのブログ鬼子母神日記:https://ameblo.jp/pissken420/

みちくさ市トーク
***   雑司が谷番外地〜どうせ俺らの行く先は〜   ***
石丸元章×曽根賢(ピスケン)×武藤良子イラストレーター)
■開催日時
2017年11月19日(日)
13:30〜15:00(開場13:10〜)
■会場
雑司が谷地域文化創造館 第2会議室
〒171-0032 東京都豊島区雑司が谷3-1-7
■入場料
1000円 ※当日お支払です
トーク予約と詳細はこちら
http://kmstreet.exblog.jp/18596651/

遺影がない

日雇い労働者の町で古本を売らないかと誘われ、八月末、横浜寿町に乗り込んだ。寿町の真ん中に建つ寿町労働総合福祉会館の建て替え工事のため、この夏だけ空いた巨大な更地に水族館劇場が芝居小屋を建てている。水族館劇場の本公演は九月一日からだが、八月中の毎土曜日は小屋の周りでイベントが行なわれており、誘われた古本市もそのひとつだった。
古本と古本屋を乗せて、車で寿町に向かう。大通りから入って三ブロック目、角を曲がった瞬間、車中に小さな声があがる。車道の両脇に並べられた数百台の自転車と、道端にしゃがみ寝転がる男たち。車に視線が食いついてくる。車窓の景色が一変する。
「盗賊たちのるなぱあく」と名づけられた更地に入ると、右手にまだつくり途中の巨大な水族館劇場の芝居小屋が、小屋を囲むように組まれた足場には鬼海弘雄さんの写真が大きく伸ばされむき出しで飾られている。
古本市の会場は、更地に入って左手にある、小さな掘っ立て小屋のひとつだった。工事現場のような鉄骨で組まれた足場のうえに、板が渡され、壁はなく芝居でつかうような布が垂らされ、屋根はテントのような生地でたわんでいた。水族館劇場の芝居小屋は劇団員たちの手づくりで、この掘っ立て小屋も彼らの手で建てられたものひとつだった。
六人の古本屋が場所を決め、鉄骨に渡された板に布を敷き、おのおの古本を並べていく。掘っ立て小屋の入り口と中にも、鬼海さんの写真が勲章のように飾られている。更地とむき出しの鉄骨と写真と小屋が、並んだ古本と併せていい風情だ。雨が降った日は、掘っ立て小屋まで鉄骨の足場が橋のように組まれ、タイかどこかの水上マーケットのようにもなる。日が落ち裸電球が灯ると、戦後闇市の気配さえしてくる。
こんな場所で古本を売る機会などめったにない。いろんな催事に出ている古本屋の友人も、こんなのはじめて、と落ち着きのない顔をしている。こんなに面白い場所なのに、本公演前で人が来ないのがもったいない。少しでもこの場の面白さが伝わるように、更地のあちこちで写真を撮りツイッターにあげていると、白いランニングの男に声をかけられた。
「この町の人間が四千五百円も払えるかよ。」
男は水族館劇場の芝居小屋にさがる、前売り券発売中の垂れ幕を見ながら、声に怒りをにじませている。
どうせたくさん金もらってやってんだろ、と続くことばに、この劇団はお金持ちじゃないよ、あの小屋も劇団員の人たちが自分たちで建てているんだよ、とたいして知りもしない劇団の、誰の替わりかわからない弁解がわたしの口をつく。
金持ちじゃないということばに男の気配が少し緩んだ。
「おれは金持ってたよ。昔は歌舞伎町とかで遊んだりしてたのになぁ。おれさ、人生は上がったり下がったりとんとんだと思ってたけど、この町に来て、下がったり下がったりの人生もあるってはじめて知ったよ。癌もやってさ。ほら。これ、手術の痕。」と白いランニングをまくって見せる。へその横、つれた縫い目が縦一文字に腹を走る。
おれの写真撮ってよ。鬼海さんの写真がいくつも飾られた鉄骨の前に男を立たせ、シャッターをきる。おねーさんも撮ってあげるよ、と男に言われ、入れ違いに鬼海さんの写真の前に立つ。ほら、もっとポーズとって。わたしは手を振り上げて、わたしのアイフォンを構える男に笑ってみせる。
「おれ、遺影がないんだよ。」鬼海さんの写真を見上げながら男が言う。「七十になったら、おれこの人に写真撮ってもらいてーなー。」
しばらく古本を売っていると、また白いランニングの男が戻ってくる。
さっき撮った写真見せて。アイフォンの画面を男に見せる。なんだよただのおっさんだなぁ、と男が愚痴る。そりゃそうだよ、ただのおっさんなんだから、と軽口で返す。あと二年で七十を迎えるという男は、そりゃそうだよな、と笑いながら、再び町へ消えていった。
先日、平田さんと新宿の台湾料理屋で飲んだ帰り、西口の郵便局へ寄るという平田さんと、紀伊国屋の前辺りで別れた。ムトーさんは今日は歩いて帰らないの?わたしは酔うと、新宿から雑司ヶ谷まで、歩いて帰ることがたびたびある。今日は副都心線雑司ヶ谷まで乗って帰るつもりでいたが、平田さんのことばで気が変わった。せっかくだから一駅くらい歩いて帰ろうか。伊勢丹の手前の角を地下におりずに、左に折れた。
靖国通りに出て、花園神社へと向かう、明治通りとの交差点を渡り終えてすぐだった。グワシャン。鉄とコンクリートがぶつかる鈍い音が後ろで響いた。振り返ると交差点の真ん中に、小さな車と、その横にバイクと男が転がっていた。車のドアが開き、飛び出してきた男が転がる男に慌てて駆け寄る。転がる男は交差点の真ん中で、身動きひとつしない影みたいだ。
信号待ちをしていた人たちが駆けつけ、影の周りに輪ができる。歩道から、誰か救急車を呼んだ人はいますか、誰か救急車を呼んだ人はいますか、誰か救急車を呼んだ人はいますか、と交差点の真ん中に向かって、携帯電話を握り締めた若い女が同じことばを叫び続ける。女の後ろで、ええ、目撃者はたくさんいます、そうです、そうです、と男がどこかへ電話をかけている。手を出す人の多さから、わたしは交差点をそっと離れる。
明治通り雑司ヶ谷に向かって歩く。交差点から少し歩くと、酔った男が道にしゃがんで吐いていた。もう少し歩くと、若い女と男が街路樹の下で抱き合っていた。ガコン、とまた大きな音がして、顔を上げるとファミリーマートのトラックが、荷台から台車へとコンテナを運び移す、明治通りのよくある夜だった。
「この町の人間が四千五百円も払えるかよ。」
いま立ち止まると、夏に聞いたあの男のことばに追いつかれる。
「おれ、遺影がないんだよ。」
止まらなくなった足が一駅を越して、雑司ヶ谷まで明治通りを駆けていく。

顔も知らない

居間兼台所の座卓に座り、テレビを見たり、昼飯を食べたり。座卓の正面の窓からは、お向かいの白い戸建が二軒と、二軒の間にさらに向こうの二階建てのアパートが見える。座って窓を見上げているので、どちらの建物も二階部分しかこちらからは見えない。
ある雨の日、また洗濯もの出しっぱなしねぇ、と隙間から見えるアパートの二階を見上げて母が言う。また?と聞くと、晴れでも雨でもあの部屋の人は洗濯ものが出しっぱなしなのだと続けて言う。アパートにはベランダなどなく、窓の外に小さなひさしがあるだけで、ひさしの下に並べられた洗濯ものが雨を吸って萎れている。家に居る時間の長い母は、ときどきこうしたことに気づく。
母に言われてから、座卓に座るとつい目がアパートの二階の洗濯ものにいく。干されたものの種類から、住人はおそらく若い男で、それにしてはこまめに毎日のように洗濯ものを干している。一度干したら乾くまで取り込まない主義なのか、雨の日でも堂々と、洗濯ものをひさしの下で揺らせている。
そんな変わった洗濯ものをここ数年眺めていたが、ある時から洗濯ものが干されなくなり、またある日から洗濯ものの種類が変わり晴れた日にしか揺れなくなった。雨の日に空っぽのひさしの下を見て、若い男は引越したのか、新しい住人が入ったのか、とやっと気づいた。
手前の白い戸建の左側のほう、こちらの二階のベランダもよく見える。晴れた日には白や水色の大きなシーツがベランダいっぱいに広げられて揺れている。靴下やパンツや細かい洗濯ものが雨で萎れているのと対照的で、大きなシーツが乾いて風になびいている姿は気持ちがよかった。
ついこないだのこと、戸建の前に引越屋のトラックが停められていた。大きなシーツともこれでおさらば。戸建の住人は若い夫婦だったが、生活する時間が違うのか、住んでいる間まともに顔を合わせたことがなかった。それなのに、わたしは顔も知らない隣人たちの洗濯ものの色柄を知っている。

タテバ

数年前、古本屋を営む知人の車に乗せてもらい、タテバと呼ばれる場所に連れて行ってもらったことがある。車を西に走らせ数十分、豊島区の端っこなのか、それとも練馬か板橋辺りなのか、住宅地のなかに唐突にあった。道の向かいは学校の校庭で、タテバの横は白く大きなマンションだった。タテバの入り口に、近所の人が持ち込んだのか、雑誌やカタログの入る紙袋がふたつみっつ転がっていた。
車を寄せると、インドか中近東辺りの顔立ちの、褐色の肌の男が近寄ってきた。手に鎌のような棒を持ち、無言で車を誘導し、所定の場所に停めさせる。見ると、近くの壁にかけられた電光掲示板の数字が点滅し変わっていく。車に人と本を乗せたまま、総重量を量っているのだ。動物園の象舎に象の体重を量るこうした仕掛けがあったなと思い出す。
量り終えるとまた車を誘導し、今度は車のケツを大きな穴のそばに寄せるように停めさせられる。後ろのドアを開けたと思うと、男が手と鎌で一気に本をかき出していく。店で売れ残りはぶかれた本や雑誌たちが、穴に向かって落とされていく。その際プラスティックのものは丁寧に取り除かれる。穴に落とされた本たちは、突起のあるベルトコンベヤーに引っかかり、少しずつ2階に運ばれていく。ここから2階の先は見えないが、本、雑誌、カタログなどを固め結束させた身の丈ほどの立方体が、タテバのあちこちに積まれている。
膨大な本が穴の中と穴の周りに落ちている。男が周りに落ちた本を穴の中に蹴りこんでいく。わたしより十か二十か上だろうか、いつの間にか現れた女が落ちた本を物色し抜いている。自分が関わった本や雑誌がないことを願いながら、かき出され蹴りこまれていく表紙を見つめる。ここは本の終わり、再生紙のはじまりの場所だ。
空になった車に乗り込み、また重量を量る。電光掲示板に、かき出される前と後の差、本の重量が表示される。紙の相場によって値段は行くたびに変わるという。そのときは1キロ5円だったか、車の荷台に目一杯詰め込んだ本の値段は6千円だった。
知り合いにここを教えてもらい通うようになって、はじめは金もなにももらえなかった。顔を覚えてもらい、無言で量りに誘導されるまで、1年くらいかかったかな。バングラディッシュ人の親方みたいな人はずっと変わらないね。バングラディッシュ人かどうか、本当は知らないけれど。
タテバを出るときむき出しで6千円もらう。入るときには気づかなかった、入り口横の事務所の上に、都心では珍しい丸い穴がいくつも並ぶ大きな鳩小屋が乗っかっているのが見えた。どこのタテバも同じ仕組みかどうかわからない。褐色の肌の男は最後まで何も話さなかった。

星とくらす

あれは山中湖の近くにあった、父の勤めていた会社の保養所だったと思う。子どものころ、家族旅行で何度か訪れたはずだが、覚えていることはそう多くない。湖畔沿いの売店の大きな水槽につかって売っていた青りんごの甘酸っぱい固さと、夜、保養所の窓から見上げた一面の星空だ。大人になってからも、旅先で夜空を見上げる機会はかわらずあるが、見上げたときの開けた口をそのまま閉め忘れるような星の数に、あの日以降出合っていない。
はじめて天体望遠鏡で星を見たのは中学生のときだ。上野の国立科学博物館の屋上で行なわれていた天体観測会へゆみえさんとふたりで出かけた。そのとき見えた土星の輪っかと月のでこぼこが、はじめての「わたしの星」だ。埼玉の多摩湖のほとりでしし座流星群を見たときもゆみえさんとふたりだった。同じようにどこからか流星群を見に来た人たちとともに、湖の脇の歩道にシートを敷き寝転びながら、夜空を流れる星を一晩中見ていた。ひときわ大きな火球が流れると、ことばにならない歓声が湖畔をゆらした。
荒川土手でも流星群を見たことがあった。本屋で働いていたころ、同僚の家で遅くまで飲み、誰が言い出したのか、流星群を見に行こうと練馬の家から荒川土手までタクシーを飛ばした。酔いつぶれ土手に寝転がる同僚たちと、荒川のうえに流れる星を見た。
蟲さんの著書「星とくらす」を読んでいると、わたしの暮らしのあちこちの、かつての星を思い出す。そしてまた、倉敷の思い出も星座のようにつながっていく。蟲文庫の2階にある小さな天文台を見せてもらったこと。店の裏手にある鶴形山公園から見た町並み。蟲さんの実家に行く途中に通った倉敷川沿いの暗い道。見知った場所が出るたびに、なかなか行けない倉敷の町を本のなかで再訪していく。
読み終わったあと、夜空を見上げる機会が増えた。しばらく忘れていた誰かと星を見る喜びを思い出し、いまも暮らしのなかに星があるのだと、ほんの少し、意識を空へと向けてくれる。
◆蟲日記◆: 『星とくらす』できました

わたしのアトリエ 文藝誌『園』

学生時代から三十代半ばまで、自分の部屋で絵を描いていた。中学生のころ建替えた家の、2階の端にあるわたしの部屋だ。窓はふたつ。ひとつはいつも閉め切りで、もうひとつは開けたり閉めたり。窓の前には目隠しがわりの木が一本。ときどき鳩が巣をつくっては、カラスにやられていつの間にかいなくなる。木の向こう、隣りの平屋の屋根のうえに小さな空が見えていたが、数年前に平屋も壊され2階建ての戸建てにかわった。小さな空はいまは見えない。
三十代半ばのころ、新聞に折り込まれていた豊島区の区報を眺めていると、池袋の西口の先、要町近くの廃校になった小学校の理科室を、アトリエとして貸し出すという記事を見つけた。応募し面接をして、応募者が少なかったのか、四名の枠にあっさり入れた。理科室は壁で四分割され、一番奥がわたしのアトリエとして支給された。床に座り、広げた紙に覆いかぶさるようにして絵を描く。描き疲れて顔をあげると、理科室の大きな窓から大きな空が見える。この空を見て、わたしは曇天画を描いた。
快適だった理科室のアトリエは四年で追い出され、生活の場とは違う場所で絵を描く快適さを知った後ではもはや家で描く気にはならず、雑司ヶ谷一丁目の風呂無しアパートをアトリエとして借りた。講談社のある音羽へ歩いてもそう遠くなく、菊池寛の旧文藝春秋社屋へは歩いて一分もかからない場所だった。それだからか、昔からこの辺りには挿絵を描く画家が多く住んでいたと、古本屋を営む知人が教えてくれた。
外階段をあがった2階の一番手前の部屋を借りたのは、床が板張りで掃除が楽そうだったことと、便所や流しの小さなものもあわせれば、七畳半しかない部屋に窓が四つもついていたことだ。便所と流しの窓からは隣りの草ぼうぼうの空き地が、西側の窓からは路地のあいだに細長い空が、入り口横の南側の窓からは隣りの家の三角屋根がよく見えた。
となりのトトロ』に出てくるような、古い平屋の横に洋風の三角屋根の部屋がくっついた、ハイカラということばがよく似合う家だった。三角屋根の横にバラや棕櫚の木が植えられているのもいかにもだった。クーラーもないアパートはこの時期、窓も入り口も開けっ放しでひたすら扇風機を回す。描き疲れると、入り口に置いた紙の束のうえか、南側の窓のした、廊下に突き出た靴箱に腰掛けて、三角屋根と棕櫚の木のうえに広がる空を見ていた。
絵の連載がいくつか終わり、アパート代を払う余裕もなくなり、それでも家で描く気にはならず、今度は昼間ほとんど家にいない知人のもとに転がり込んだ。古いビルの四階の、部屋の外に後からむりやりつくられたようなサンルームがあたらしいアトリエだ。雨漏りはするし、雨が吹き込んだ床板は所々腐って落ちている。夏は暑く冬は寒いと言われたが、西日の差すクーラーのない風呂無しアパートに比べればまだましだった。路地が入り組むこの辺りは、二階建ての戸建てやアパートがほとんどで、四階建てのサンルームから見える空はとても広い。
個展「曇天画」を開催したのは7年前の2010年。空はかわらずいつもあるのに、描く場所ごとに絵が変わっていく。今日の東京の空は曇り。あいかわらず曇天こそが東京の、わたしの青空。

お誘いいただき文藝誌『園』創刊号に、短い文章「靴とサンダル」を書きました。取り扱い店舗、通販などのお知らせはサイトをご覧ください。
文藝誌『園』:http://sono-magazine.jp/