断片日記

断片と告知

乾杯

久しぶりに仙台へ行った。最後に訪れたのは2015年の6月だから、2年ぶりの再訪になる。2009年から15年のあいだ、サンモール一番町商店街で行なわれていたBook! Book! Sendaiでの古本市に参加するため、毎年6月はわめぞの有志で仙台を訪れていた。昼は古本市、夜は仙台の人たちと打ち上げで飲み、翌日は仙台市内はもちろん、松島や塩釜まで足を伸ばし散策する。「火星の庭」に寄りバナココとタコライスを食べ、立ち食い寿司で中落ちの軍艦を食べて帰るのが毎年の楽しみだった。本の魅力を伝えていくというBook! Book! Sendaiの活動はいまも続いているが、商店街での古本市はなくなったため、みんなでえいやっと仙台へ行く機会がなくなった。いつでも行けると思いつつ、打ち合わせやイベントで東京を訪れる「火星の庭」の前野さんと飲む機会はたびたびあったので、なんとなく仙台には行かなかった。
2年経って、どうにも辛抱できなくなった。仙台で前野さんと飲みたくなった。特別にしたい話や報告があるわけじゃない。学生時代に馴染んだ店の味がいまも変わらないことを時々確かめたくなるように、ただただ仙台を歩きたかった。
はじめてコボスタ球場で楽天戦を見て、夜は「火星の庭」の裏手にある小さな飲み屋の座敷にあがる。前野さんのうしろの壁に、仙台でよく見る商売繁盛の縁起物、仙台四郎の写真がかけられている。パ・リーグ首位を独走する楽天の話題が出ると、店の人も客も、今だけ今だけ、と口をそろえる。マー君がいたとき優勝したじゃないですか、と口をはさむと、そりゃマー君がいたからだよ、24勝した投手が抜けたらねぇ、と優勝の翌年から最下位にすべり落ちた楽天の姿をいまも引きずっている。刺身のうまさも盛りの多さも、あちこちで見かける仙台四郎も、定禅寺通りの大きな並木も、Book! Book! Sendaiで来ていたころと何も変わらない。ただ前野さんが、最近は昔みたいに飲みに行かなくなった、と言う。昔と変わらず2軒目も付き合ってくれる前野さんが、ふたりはこうして来てくれるから、そんなことを言う。
2日目。昼は仙台の街中と広瀬川沿いを歩き、夜は「火星の庭」からほど近い小さなサロンのような場所で行なわれた、友部正人さんのリクエストライブに行った。入場すると小さな紙を渡され、友部さんに歌って欲しい曲をひとつ書いて小さな紙袋に入れる。舞台に立った友部さんが、紙袋に手を入れかき回して1枚引く。1曲目からこれかぁと言いながら、友部さん訳ボブ・ディランの「くよくよするなよ」からライブがはじまった。1曲1曲、袋から引いた紙をサングラスをかけた目でじっと見る。横のテーブルに小分けに置かれた譜面の中から1枚取り出し譜面台に置き、首から下げたブルースハープを付け替える。休憩をはさんで3時間以上、わたしのリクエストはだめかと諦めたころ、最後から2番目にひょいと紙が引かれた。連合赤軍がテレビや新聞をにぎわせていたころの歌「乾杯」だ。
電気屋の前に30人くらいの人だかり 割り込んでぼくもそんなかに
連合赤軍5人逮捕。泰子さんは無事救出されました。』
金メダルでもとったかのようなアナウンサー
かわいそうにと誰かが言い 殺してしまえとまた誰か
やり場のなかったヒューマニズムが今やっと電気屋の店先で花開く
いっぱい飲もうかと思っていつもの焼き鳥屋に
するとそこでもまた店の人たちニュースに気を取られて注文も取りにこない
お人好しの酔っ払いこういうときに限ってしらふ
ついさっきは駅で腹を押さえて倒れていた労務者には触ろうともしなかったくせに
泰子さんにだけは触りたいらしい
ニュースが長かった2月28日をしめくくろうとしている
『死んだ警官が気の毒です。犯人は人間じゃありません。』って
でもぼく思うんだやつらニュース解説者のように情にもろく やたら情にもろくなくてよかったって
どうして言えるんだい やつらが狂暴だって」
3日目。前野さんと石巻を歩く。石ノ森章太郎のキャラクターの銅像が並ぶ商店街を抜け、前野さんが調べてくれたうまいと評判の寿司屋に入る。カウンター数席と4人掛けのテーブル席がひとつだけの小さな店だ。鯨の刺身も、中おちの軍艦も、アナゴも、ウニも、食べた瞬間に口のなかでとけていく。こんな寿司は食べたことがない。テーブル席の家族連れの、好きなものを最後に残していたのか、小さな男の子に店主が笑いながら話しかける。早く食べないと、またいつ津波がくるかわからないよ。
満席だった店がいつの間にか客は我々だけだ。気さくな店主が震災の日を話す。前の店はここからそう遠くないところにあったのに、2メートルも水をかぶって。ここは元寿司屋の居抜き物件だけど、30センチしか水が来なかったんですよ。昼の営業が終わってちょうどまかないを食べようと茶碗を持ち上げたら店が揺れた、と、手をあごの下まで持ち上げて見せる。早く食べないと、またいつ津波がくるかわからないよ。そう笑いながら。
店の近くを流れる北上川のまんなかに、石ノ森萬画館の真っ白で丸い外壁が浮かんで見える。たくさんの人が避難したという日和山の向こうにある海は、ここからは見えない。
仙石線の車窓から見える家々や道にひかれた白線がどれもま新しい。震災の年の6月におこなわれた古本市で来たときは、瓦礫や壊れた家やシャッターや信号機、打ち上げられた船が、海沿いの景色のあちこちで見られたがもうそれもない。震災から日々片付けられていく景色のなかで、片付かない心が取り残されて笑っている。
何か出来ないかな。雑司ヶ谷に戻って、友人たちと飲みながら仙台の話をする。
ムトーさんには何も出来ないよ。
はじめからいたひとりが言い、そうそうムトーさんには何も出来ない、と、後から来たもうひとりも言う。
ただ中落ちを食べに仙台に行けばいいんだよ。
そうそうムトーさんにはそれしか出来ない。
お前もまた、泰子さんにだけは触りたいひとりだろうと、友人たちがわたしを見抜く。
「乾杯 今度あった時にはもっと狂暴でありますように」

小林秀雄だってそうなんだから

石神井書林の内堀さんがよく行く映画館にはシニア割引がある。60歳を越えると1800円の映画代が1000円になる。1800円が1300円くらいの割引ならわざわざ言わないんだけど1000円じゃなぁ、と内堀さんは窓口で60歳ですと申し出る。それが一度も身分証明書を見せてくださいって言われないんだよ。はいはいと通されるんだよ。自分が60歳なんて自分がいちばん認められないのに。
古本屋にも古書組合にも定年退職というものがないので、内堀さんが古本屋として働きはじめたころ、先輩だった人たちがいまだに現役で働いている。下からいくら若手が入ってこようと、自分が若手だったころの先輩がいまだにいるのだから、その自分が60歳なんて、と苦々しい。
「年齢とはそれに応和しない限り、納得のいかない実体である。」
小林秀雄だって。小林秀雄も。小林秀雄でさえそう言ってるんだから。ましてや自分なんて。石神井公園の感じのいいスナックで、小林秀雄のお墨付きを内堀さんが振り回す。内堀さんの口から出る、読んだことのない作家のことばを聞きかじりながら、酒に揺られている夜は楽しい。
わたしが新刊書店を辞めたあと、知り合った多くは古本屋を営む人たちだった。一箱古本市がはじまり、「わめぞ」がはじまり、本や古本好きのブログが賑わっていたころだ。そうした場所でひとりの古本屋と知り合うと、またひとり、またひとりと、さらには東京から離れた古本屋にまで広がっていく。訪ねていって家に泊めてもらい、飯も酒もたかるわたしを彼らは切り捨てずに笑う。良くも悪くもサラリーマンとは一味違う大陸的な彼らと、新刊書店からはぶかれた自分の立場を勝手に重ね合わせ、仲間のように混ぜてもらうのは心地よかった。古本屋を営む人たちと、酒に揺られているとそうしたはじまりの日々を思い出す。
とある古書店主はカラスの被害に困ったあげく、自社ビルの屋上に殺したカラスを十字に貼り付けたって。それ以来、その町のカラスは古書店主に似た白髪の男を見ると逃げ出すんだってさ。
老いた古書店主は店の若手に車椅子を押させ、いまも古書会館に顔を出してる。なにをするわけでもないんだけど。車椅子でゆっくりと市場の古本を見て周ってるって。
自分が若手のころ高かった本は、いま見てもすごい本だと思っちゃうんだよね。いまあの全集いくら?そろいで7千円で落とせるの?もう、信じられないよ。
店も催事もネットも目録もうまくこなせる古本屋もいるけど。借金つくって東京を離れて、また別の町で古本屋をやる人もいる。東京から来たってちょっとちやほやされちゃって。でもすぐばれてさ。なんでもうまくこなせる人より、そういう人のほうが自分は好きなんだよね。古書組合もそういう人を切り捨てないよ。この先どんな古本屋が生き残るかなんて、わからないからね。
与太話と古本屋を酒のつまみに飲んでいると終電がとっくに過ぎる。わたしも、そういう人のほうが好きなんだよね、と拾ってもらったうちのひとりだ。古本と古本屋に惹かれる人たちもまた、同じだろうか。
翌日、あのことばなんでしたっけ?と内堀さんにメールを送る。
「『年齢とはそれに応和しない限り、納得のいかない実体である。』小林秀雄だってそうなんだから。」
小さな画面のなかでも昨晩のお墨付きを振って返す。内堀さんと話していると、古本屋は大陸のどこかにある竜宮城のように見えてくる。玉手箱の煙とともに時間が流れ出すのは、店をやめたときなのかもしれない。

前略、ぬいぐるみの中身様。

昨年の12月、飲み友達が死んだ。死んだからって、いい人だったよねと、あれやこれやを片付けお仕舞いにしたくなかった。本が好きで、酒が好きで、不良で、格好付けで、夢見がちな男だから好きになり、本が好きで、酒が好きで、不良で、格好付けで、夢見がちな男だから嫌いになった。彼との関わりをどこかに書いて残したかったが、誰もが気軽に読めるこうした場所に置いておくことは違うような気がした。そうしたときに入谷コピー文庫を発行する堀内さんから、レクイエム特集を出すと連絡をいただいた。世の中に20部くらいしか出回らないコピーを綴じた冊子は、夢見がちな男と振り回された女のまぬけさを残すのに調度いい大きさに思えてありがたかった。気軽に読めない冊子に書いたが、読んで欲しくないわけじゃない。もしどこかで手に取る機会があればぜひ。

入谷コピー文庫
「ひとりぼっちのレクイエム 夜明け前」
発行日:2017年6月13日(通巻83号)
発行者:堀内家内工業(堀内恭、和代、母・一子)

ピエーポポ!ライブ2017

今年のはじめ、チラシの肖像画を描いた縁で、東洋大学で行われた野溝七生子の講演会へ行った。女性が学校に通うことはおろか、本を読むことさえ生意気だと言われていた時代に、東洋大学に進んだ野溝七生子の一生を、代表作『梔子』の主人公と重ねた幼少時代から、大学で教鞭をとりながら新橋のホテルで過ごした晩年を、かつて少女小説家だった女性の生きざまを伝説にまで昇華させた熱のある講演会だった。
講演の中盤に南天堂書房の名前があがった。南天堂書房はいまも東洋大学のそば白山に新刊本屋としてあるが、当時は2階にカフェがあり、夜な夜な、作家、詩人、歌人、演劇人、アナーキストたちが、集い議論し酒を飲んだ場所だった。いまもどこかにあるそうした場所を考えた時、まっさきに浮かんだのがブックギャラリーポポタムだった。西池袋の住宅街にあるギャラリーに集うのは、いづれも一癖ある顔ばかりだ。時々店番を手伝うわたしは、大林店長が国内外から見つけてくるいろんな顔と出会う機会と、家の近くにこうした場所があることを幸運に思っている。
そんな南天堂書房創業者・松岡虎王麿のような大林店長が、いまギターを弾きポポタムズというバンドを組んでいる。ポポタムならではの人選で、ここでしか聴けないようなロックフェスを自ら楽しむために。4月2日は桜台poolへ。BOEESも参加します。

***ピエーポポ!ライブ2017***
村岡マサヒロ個展・クロージングの宴&ポポタム開店干支一巡りを祝して「ピエーポポ!ライブ」を開催します。
2015年11月1日のポポロックフェスから1年半……私どもポポタムズの成長と、BOEESの叫び、個展を終えた村岡さんの弾けるギター・HERNIA15、そして豪華ゲスト・根本敬先生のDJをお楽しみに!
■ライブ詳細、予約はこちらから
http://popotame.com/items/58b4527f9821ccbbd4003d75
■出演
HERNIA15 (村岡マサヒロ所属バンド)、BOEES、ポポタムズ、 DJ根本敬、 and more…
■日時
2017年4月2日(日)14:30 open 15:00 start
■会場
桜台pool(西武池袋線桜台から徒歩1分)
練馬区桜台1丁目7-7 シルバービルB2F
■料金
前売り:1500円
当日:2000円
※入場時に1ドリンクオーダー
※時間内出入自由

桶川の焚き火

松本素生さんが作った「東京」という歌をはじめて聞いたのは、昨年9月に行なわれたポポロックフェスのときだ。イッツオーライ。繰り返されることばが、聴き終わったあといつまでも口先に残り続けるのが気持ちよかった。みちくさ市の打ち上げで、「東京」が好きだったと遊びに来た素生さんに言うことができた。でも、と続けた。
埼玉の桶川出身の人がどうして「東京」なの?桶川なんてほとんど東京じゃない。
在来線に30分も乗れば山手線の駅に出られる町の人が、「東京」という歌を作るのが不思議だった。もっと遠くの町の人が、憧れや反発や夢や悔恨を歌にするとき、「東京」ということばを使う気がしたからだ。
「桶川は東京じゃないよ。ホームにおりると焚き火の匂いがする、そんな駅、東京にはないでしょ。」
桶川駅におりたことはないが、縁がないわけじゃない。仙台に越していった友人の生まれ育った町でもあり、宮本くんのブログ「いつまでも生きていたい日記」によく登場する町でもある。そんな友人たちの町で、焚き火の匂いがするという地元で、松本素生さんが歌う姿を見てみたかった。
9月の半ば、ベニバナウォーク桶川という桶川駅から少し離れた場所にあるショッピングモールで、素生さんのバンド、GOING UNDER GROUNDのライブがあることを知った。ベニバナウォーク桶川のなかにあるレコード屋新星堂の主催で、新しいアルバム「Out Of Blue」の発売記念のライブだった。桶川をよく知る宮本くんと、大宮近くに住むエンテツさんを誘い、わたしはその日、桶川を歩いてみることにした。
エンテツさんはライブ会場に直接来るとのことで、宮本くんと13時に桶川駅のひとつ手前、北上尾駅で待ち合わせた。池袋から赤羽まで埼京線、赤羽から北上尾までは高崎線に乗った。久しぶりに乗った高崎線は4人掛けのボックス席で、窓枠に肘をついてぼんやり外を眺めていると、たいした距離も乗らないのに、これからもっと遠くへ行くような気がしてくる。後ろの席から漂ってくるサンドイッチの、車内にこもる食べものの独特の匂いのせいかもしれない。北上尾のひとつしかない改札を出る。上尾の名産やゆるキャラが飾られたショーケースを眺めていると、斜めに首をかしげながら宮本くんがやってくる。
東口に出る。駅前のロータリーを過ぎ、旧中仙道を越え、大型ショッピングモールPAPAの横を抜ける。PAPAのなかの本屋、高砂屋書店が以前は桶川駅前にもあったがいまはここ一軒だけになったことを聞きながら。歩きはじめたときから、どこを目指している、とか、今日はどことどこに行きます、とか、宮本くんの口から一切出ないので、わたしはどこに向かって歩いているかわからないまま、ここが国道17号です、などという宮本くんの解説を聞いている。
はじめに立ち寄ったのは、17号沿いにあるオートパーラー上尾だった。古いゲーセンと、これまた古い、そばうどん、トーストサンド、カップヌードルなど食べもの系自販機がいまも現役で活躍している、そうしたものが好きな人たちには知られた場所らしい。自販機でハムチーズのトーストサンドを買って宮本くんと半分こにして食べる。宮本くんの飲む瓶のコーラを一口もらう。建物の真ん中に小さな管理人室、右半分はパチンコの筐体、左半分はマージャンなどゲームの筐体とその奥に自販機コーナーがある。客は我々のほかに、マージャンゲームで遊ぶおじさんが2〜3人、自販機のうどんを食う男がひとりだけだ。建物の右半分は電気が消され、大きな窓から入る自然光が、何十台もの古いパチンコ台を鈍く浮かび上がらせている。自販機もゲームもゲームの前に置かれた椅子も灰皿も、清潔で吸殻ひとつ落ちていなく、長い時間大事に使われてきた古物のような気配がある。宮本くんが黙ったまま千円札を崩しにいく。古いクレーンゲームで安っぽい女もののパンツを取ろうと奮闘し、やがてあきらめる。
17号沿いをまた歩く。大きなトラックが走りさる、歩き慣れた明治通りとは違う音。車道に向かって建てられた大きなチェーン店の看板。宮本くんのお母さんがむかし住んでいたという団地。団地の向こうからのぞく聖火台によく似た形の給水塔。宮本くんが「おいしい」とブログに書く天ぷら屋天治。
天治で昼飯かと思ったが、前までくるとシャッターがおりている。おじさん今日はやるって言ってたのに、と宮本くんがうなだれている。事前に確認していたマメさとあっさり反故にされた様子がおかしくて、宮本くんとおりているシャッターの写真を撮る。
17号の交差点を左折して、住宅街にはいる。子どもたちからリス公園と呼ばれていたリスのいない公園、宮本くんの家族が大晦日にお参りに行く神社のそば、歩行者用の小さな踏切で高崎線の線路を越える。畑の残る住宅街のなかに建てられた、宮本くんの実家と、その並びの宮本くんのおばあちゃんが8年前までやっていたという喫茶店は、郊外の平屋のちょっとしたファミレスくらいの大きさがある。戦前都内で果物商をして儲け、疎開していまの場所につくったという喫茶店は、当時ずいぶんハイカラだったに違いなく、駅前でもないこの場所でよく流行ったらしい。スイスが好きだからと名づけられた店名もまたしゃれている。
いつ見ても誰が誰だかわからないと宮本くんがぼやく、埼玉出身の作家たちの似顔絵が描かれた垂れ幕のさがるさいたま文学館には、隣接して大きなホールがある。ここでGOING UNDER GROUNDもライブをしたことがあるらしいが、今日は世良正則と書かれた大きな垂れ幕がおりている。ここで成人式をやりました。幼稚園、小学校、中学高校と、すべて違う学区に通った宮本くんが、地元の成人式に出るのが不思議だった。中学から私立に行ったわたしは、豊島区の成人式に出ていない。一緒に行く友人もいなければ、楽しそうな彼らを見るのも、輪に入れてもらうのもはじかれるのもまっぴらだった。ぼくも行く気はなかったんですが、庄司薫が書いた成人式のエッセイを読んで行くことにしたんです。中学時代、バトミントン部だったこと。学校から帰ったあと、桶川の体育館でひとりでサーブの練習をしていたこと。宮本くんと話していると、かつての自分をよく思い出す。友だちのいない棒が二本、並んで桶川の町を歩いている。遠くにその体育館とベニバナウォーク桶川が見えてくる。会場にはライブ開始10分前に着いた。
ベニバナウォーク桶川のなかにあるスーパーで缶ビールを買い、飲みながら開演を待つ。エンテツさんとエンテツ夫人がやって来る。我々が飲んでいる姿を見て、エンテツさんがあわてて缶ビールを買いに行く。ステージはそう大きくはないが、3階まで吹き抜けているので開放感がある。ステージ前に並べられた椅子はすでに満席で、休日のショッピングモールの無料ライブということもあり、家族連れの姿が目立つ。壁のあちこちに、桶川出身メジャーアーティストGOING UNDER GROUNDインストアライブ、と書かれた黄色いポスターが貼られている。
中学でバンドを組んだこと。桶川では貸してくれなかったので、隣りの市の公民館を借りてはじめてライブをしたこと。今日はライブが終わったらくるまやという馴染みのラーメン屋に寄ること。地元やバンドや新しいアルバムの話をはさみながら演奏した曲は、「トワイライト」「おれ、ねこ」「the band」の3曲だった。ステージのそででメンバーに子どもを見せている人たちは、彼らの幼馴染だろうか。胸に抱いた赤ん坊の背中でとんとんとリズムをとっている母親。車椅子に座りながら揺れていたおばあさんが、ライブが進むにつれ立ち上がり大きな音にあわせて体をくねらせている。小さな子がステージに手をつきながらギターとベースを弾く三人を見上げている。窓硝子さえも割れない奴らが教室の隅で組んだようなバンド。焚き火の匂いがする駅。新宿や渋谷のような街のインストアライブでは見られないだろうこうした景色のなかに、3人の歌が流れていく。
ライブ終了後、アルバムを買い、サイン会の列に並ぶ。アルバムの冊子のどこにサインを入れてもらうか悩みながら。番がきて、我々の顔を見て驚きながら笑う素生さんに、俺の恋人へ、と冊子の表にサインを入れてもらう。これから桶川駅前で飲むけれど、と誘ってみるが、今日は戻らなきゃ、と断られる。またみちくさ市で。
スーパーで2本目の缶ビールを買い飲みながら、行きは桶川駅から送迎バスで来たというエンテツさんたちと、今度は4人で桶川駅まで歩くことにする。桶川の美女見ますか?めずらしく宮本くんが聞いてくる。ここから2分くらいです、と歩きはじめて本当に2分くらいで着く。道に面した角地に、セメントかなにかでつくられ着色された、稚拙さと土着さのまじる、なんとも言えないビキニ姿の女性像が建っている。像のうえの小さな屋根には、桶川の美少女と書かれた看板と、屋根の桟に男性器を模した白い張形がひとつ置かれている。女性像の左手には同じくなんとも言えないセメント製パンダ像、右手には三越を安くしたような市販品のライオン像が置かれている。しばらくあちこちから眺め写真を撮る。
行きに歩いた道とは違う、高崎線を越える陸橋を渡り桶川駅を目指す。陸橋に面した建替中の桶川市役所。市役所前のつぶれた定食屋。写真栄えする場所があります、と見せてくれた、陸橋の下につくられた駐車場の壁にスプレーで、桶川、とただ描かれた落書き。陸橋の欄干に彫られた桶川の花、ベニバナ。
飲みに行く前に金をおろそうと、道沿いにあった郵便局のATMに寄る。カードが古いからおろせるかどうか、とエンテツさんがぼやきつつ、やっぱりおろせなかったと戻ってくる。銀行なら大丈夫、とこんどは道沿いの銀行のATMに寄る。無事におろせたエンテツさんのカードを見ると確かに古く、どこの銀行だかわからない。いまのりそな銀行ですよ、と一番若い宮本くんが即答する。人のことは言えない。私もまた、三井住友銀行のまえ、さくら銀行のカードを使い続けている。
陸橋を越えるとすぐ、旧中仙道に出る。右折して桶川駅のほうに向かう。旧中仙道沿いには古い建物や商店が多く残り、駅の反対側ののっぺりした住宅地と違い、歩いていて景色に見飽きない。昔ながらの大きな瀬戸物屋、古い建築をそのまま利用したヤマト運輸やギャラリー、年季の入ったおもちゃ屋、貼り紙の多い漢方薬屋。道沿いの公衆便所でさえ、旧街道沿いを意識した、入り口に暖簾がさがる旅館のようなつくりをしている。
駅に向かう商店街。つぶれたゲームセンターの看板。少し前まで木造の小学校の校舎が残っていたという更地。駅前の「おいしい」と書くラーメン屋。駅前を右折して現れる、線路沿いの自転車置場と飲み屋が連なる商店街。そのなかの居酒屋美味に入る。開店して間もないからかほかに客はおらず、奥の座敷にあげてもらう。座敷には炊き途中の暖かい炊飯器が置かれていたが、どかして座布団を並べて座る。瓶ビール。焦げていく朴歯味噌。タレの焼き鳥盛り合わせ。簀巻きで巻いた、でも柔らかいというあじ寿司。家族かと思ったけど違うのね。年の離れた我々が飲み話す姿を見て、女将さんがそんな風に言う。年はばらばらだけど友だちっす、そう返す。宮本くんはいつもひとりで来て、カウンターで飲んでいる。座敷の横がすぐ線路なのか、ときおり鉄の塊が通り過ぎていく大きな音がする。
駅前でエンテツさんと夫人と別れ、宮本くんとふたり、駅前の「おいしい」ラーメン屋高砂に入る。飲んだあとのラーメン一杯。おいしい。踏み切りを渡り桶川駅の反対側に出る。桶川ストーカー殺人の現場の横を抜け、駅前に建つショッピングセンターおけがわマインに入る。遅めの時間のせいか、活気がない。エスカレーターをのぼり、宮本くんがよく行く丸善と、丸善のなかに入り口がある変わった図書館を一周する。マインの屋上への階段を探すが見つからず、宮本くんが最後にどんな景色を見せたかったのか、わからなかった。
マインの2階から陸橋を渡って桶川駅の改札へ。手を振って別れる。桶川駅のホームに立つ。焚き火の匂いはしない。棒はずっと棒のままだ。
宮本くんのブログ「いつまでも生きていたい日記 」:http://nemurico.exblog.jp/26006313/

わたしの、まえのひを再訪する

「彼は、人生が一回しかなくて、すべてが過ぎ去っていくことが許せないんですよ。私も許せない。つまり、いつか全員が消えてしまって、この世のすべてが終わってしまうということが本当に理解できない。」
これは、『まえのひを再訪する』に抜粋されていた、川上未映子さんと藤田貴大さんの対談の、藤田さんの作品に向けた川上さんのことばだ。
京都での個展「沼日」で発表した絵を次に出す本の装画に使いたいと言われたのは、個展2日目の夜だった。個展に合わせて京都に遊びに来てくれた宮本くん、橋本くん、瀬戸さんとわたしの4人で、歩きながら見つけた「よしみ」という居酒屋で飲んでいたときだった。お通しの豆腐と、はものしゃぶしゃぶ、しめの雑炊のうまい、気楽に京都らしさを味わえるいい店だったが、飲みすぎだったか寝不足だったかで、橋本くんひとりほとんど飲み食いせず、青白い顔をして座っていた。個展で飾っていた絵を2枚、表紙と裏表紙に使いたいと、たしかそのとき隣りに座る青白い顔に言われたのだ。
橋本くんの次に出す本、『まえのひを再訪する』は、2014年に上演された劇団マームとジプシーの公演「まえのひ」を追いかけ同行した7都市を、翌2015年にひとりで再訪し、また今年2016年に再び再訪し、書かれたものだ。「まえのひ」の舞台をつくるひとたちと訪れた町、食べたもの、そこでの会話や見たもの、舞台をつくるひとたちからこぼれた、本来ならその場で消えてしまうはずだった景色が書かれている。自分が見たものはなんだったのか、橋本くんは2014年から2016年の景色のあいだを行ったりきたりしながら考えている。
東日本大震災をきっかけに書かれた川上未映子さんの詩「まえのひ」がところどころ引用されている。


今日は
まえのひなのかもしれない
すべての人は、まえのひにいるのかもしれない


『まえのひを再訪する』を読んでいるあいだいくども、わたしは携帯電話が鳴ったあの日に引きずり戻された。
昨年の11月に携帯電話が鳴った。電話に表示された名前は短大時代の友人で、卒業後もたまに会って飲んでいた4人組のひとりのものだった。
「落ち着いて聞いてね。Jちゃんが亡くなったんだ。」
4人組のうちのひとりが亡くなったと告げる電話だった。子宮頸がん。数年前から闘病していたことを知らなかった。最後に会ったのはいつだったか、思い出すことができなかった。
知人に頼まれていた仕事を終え、夜、知人を誘って副都心線に乗り新宿三丁目に行った。コンビニで赤ワインのボトルを買い飲みながら、靖国通りを曙橋へ向かって歩いた。ここは昔モスバーガーがあったところ。ここは昔厚生年金会館があったところ。いまはなくなった景色を数えながら、セツ・モードセミナーへ続くかつてのわたしの通学路をたどった。
短大を卒業したあと、絵を描き足らなかったわたしはセツへ、Jちゃんは美術系の専門学校へ進んだ。Jちゃんの通った専門学校はセツからそう遠くもない、靖国通りをはさんだ反対側にあった。セツに通ったハタチから25まで、曙橋周辺をあれだけうろうろしていたにも関わらず、わたしはJちゃんの学校を訪ねたことも、Jちゃんと曙橋で遊んだこともなかった。電話が鳴った日、わたしはどうしても、Jちゃんの学校とわたしのセツを見てみたかった。
靖国通りから少し入った坂のうえに、Jちゃんの学校はあった。門に貼られた案内図を見ると、校舎がいくつもある大きな学校で、そのなかのどこにJちゃんが通っていたのかわからなかった。Jちゃんはこのころ横尾忠則さんや伊藤桂司さんに影響を受けた絵を描いていた。原色の強い色で、UFOやジャングルが入りまじる不思議な具象を大きなキャンバスに描いていた。
靖国通りを渡ってフレッシュネスバーガーの角を曲がり、少し行って見上げると坂の途中にセツがある。Jちゃんの学校と歩いて10分も離れていない。わたしが水彩画を描いていたあのころのままのセツと、少し変わってしまったセツを見上げる。
短大を卒業してすぐのころは4人でまめに会っていた。住んでいる場所がばらばらだったから、飲むときはみんなが集まりやすい新宿だった。新宿三丁目の雑居ビルの地下にあった居酒屋が、そのころの4人のお気に入りだった。Jちゃんはエビが好きで、その居酒屋には店独自のエビチリのようなつまみがあり、行くと必ず頼んでいた。酒よりも飯だったそのころは、そのエビチリの辛いソースで白飯をまず食べるのが好きだった。エビっておいしいよねー。どんな店に行っても必ずエビを頼むJちゃんが可笑しかった。
Jちゃんは、桜木町にあったジェラード屋でバイトしていたが、いつの間にかカメラマンになって、結婚式場での撮影や編集の仕事をしていた。こないだはどこそこの結婚式場に行ってきた、素敵だった、と、会うと嬉しそうに話してくれた。ジュンスカが好きだった。濱マイクが好きだった。マリーという名前の白いヒマラヤンを飼っていた。UFOや精神世界やセラピーや占いが好きだった。そうしたものに傾く弱さと、そうしたものを人にはすすめてこない強さがあった。歩いていると、そんなJちゃんがぽろぽろ出てくる。
『まえのひを再訪する』を読んでいると、あのじっとしていられなかった日に引き戻される。どうして行ったこともないJちゃんの学校を、卒業してから訪れたことのないセツを見てみたかったのか。わからないから、歩くことしかできなかったあの日に引き戻される。
「彼は、人生が一回しかなくて、すべてが過ぎ去っていくことが許せないんですよ。」

世界は
まえのひで
埋め尽くされていて
森は、ふくらんで
崖は、大きくなる
どうすれば、それを、とめることが、できるのだろう
世界から
すべてのまえのひを、なくすことができるのだろう

『まえのひを再訪する』
著・橋本倫史 発行・HB編集部
四六判 210頁 2016年7月1日発行
取り扱い店一覧、通販はこちらから:http://hb-books.net/items/576342da41f8e86bbc007f26

スカートの柄 

朝、新聞を眺めていると、「父の教え」という連載が目に入った。毎週、有名人の父子が取り上げられているが、今朝は檀一雄とその娘、檀ふみさんだった。檀一雄が子どもたちに言い続けた「奮闘しなさい」という言葉と、晩年のエッセイ『娘たちへの手紙』から引用された一文に、目がとまった。
「マイホームという幸福の規格品を買うようになったら命の素材が泣くだろう。」
中学高校と通った女子校の制服はセーラー服で、わたしは毎日スカートをはいて学校に通った。冬のスカートはずしりと重く、衣替えのあとの夏のスカートは紙のように軽く感じたが、ただそれだけだった。スカートの丈、スカートの丈に合わせた靴下の折りかた、ワンポイントの柄選び、前髪の長さ、見つからないようにするささやかな化粧や巻き髪。気の利く彼女たちは、狭い規律のなかで、少しでも自分に似合う姿形を探していた。いつからか、女の子らしい格好をすることが苦手になったわたしにとって、幸福の規格品は、スカートと、スカートをやすやすとはきこなす彼女たちだった。
似合いもしないスカート選びに時間をかけるより、映画を観に行くほうが、本を読むほうが、絵を描くほうが大事なのだと、なぜそんな風に思っていたのか。
いま思えば、彼女たちは自分の器と世間と折り合いをつける努力をしていたに過ぎず、わたしはスカートより大事なものを探すという口実に、みっともない顔形を言い訳に、自分と世間と折り合いをつける努力から降りたのだ。
成人式の振袖、卒業式の袴、リクルートスーツ、ウェディングドレス。折り合いのつかないわたしの、はけないスカートが増えていく。
彼女たちの服装は数十年ごとにはやり廃りを繰り返し、あのころとどこか似た格好をした彼女たちがいまも街にあふれ出る。折り合いをつけた彼女たちが、折り合いをつけそびれたわたしの前を立ちふさぐ。美術館のなか、スカートをひらめかせながら絵の前に立ち、絵とはなんの関係もない世間話で盛り上がる。わたしは彼女たちの後ろから絵を覗きこむ。その先に、スカートより面白いものがあるはずと、あったはずだと思いながら。
規格品以外の幸福は、誰にでも見つけられるものではないのだ。奮闘をしいられた娘たちは幸せになれるのか。たいした才能もなく、折り合いをつける努力もせず、そこから目をそらし続けてきたつけはいつかは回る。
四十を越えたいまも、わたしは自分に似合うスカートの柄がわからない。