断片日記

断片と告知

『銭湯断片日記』が出来るまで

2016年3月、龜鳴屋の勝井さんからメールが届いた。金沢の室生犀星記念館から出される冊子『をみなごのための室生家の料理集』への挿絵の依頼だった。仕事の依頼です、と書かれたメールのすみっこにあった、こんなことばがはじまりだった。

「なんで落武者、いや近藤勇、いや武藤さんに、といえば、前から、武藤さんの絵はいいなあと思っていたからで、(文章はさらにいいなあ、と。特に一連の銭湯遍路は、どこも出さないなら、ウチが手を上げようかと思ったりも)それに食べ物の絵のお仕事も多いですし、何か機会があったらお願いしようと思っておりました。」

わたしのSNSでのアカウント名から、顔が近藤勇に似ていると一部の友人から言われていることまで知っているこの人はなにものなのか。龜鳴屋の名前や本は岡崎武志さんのブログで読んで知ってはいたが、どんな人かまではわからなかった。わからなかったが、最初から最後までの勝井節に笑ってしまった。挿絵の依頼はもちろん引き受け、銭湯の本もお願いしますとメールを返した。
『をみなごのための室生家の料理集』は5月の連休に合わせて無事に出来上がり、次は銭湯の本ですね、とそこまではするする進んだ。
9月のある日、またメールが届いた。
「前に手を上げた『銭湯遍路』出版の件。とりあえずブログに上がっている全文、勝手に組んでみました。本の判型は、手持ちのいいサイズでと思い、文庫より一回り大きい116ミリ×158ミリにしたら、450ページ以上になっちまいましたが、まずは、これを土台に考えて行こうと思っています。ちなみに、仮ですがタイトルは『銭湯無頼日記』とし、日記風の構成にしました。もう、組んじゃったからには、明日、一方的に分厚いゲラを発送しようと思いますので、その予告まで。」
予告通りに分厚く重いゲラが届いた。仕事で人のゲラを読むことはあったが、自分のゲラを読むのははじめてだった。自分の文章が本になる。文字通り喜び勇んで数十ページ読み進めたが、やがて手が止まった。2007年からはじまる日記の、たかだか10年前の自分の行動が、得意げな文章が鼻につき、どうにも読んでいられなかった。
そのまま1年以上、ゲラを放った。その間、勝井さんにメールのひとつも返さなかった。勝井さんからの督促も一切なかった。
2017年の春には出しましょうと言われていたゲラを、再び引っぱり出したのは2017年の秋だった。恥ずかしさから逃げていたことに恥ずかしくなり、どうにか最後までゲラを読んだが、あっちを削り、こっちを削り、恥ずかしさを最小限にすることばかりに気を取られ、「校正」がなんだかもわかっていなかった。そのくせ、無頼じゃないから『銭湯無頼日記』のタイトルは嫌だ、巻末に銭湯のリストを載せたい、と要望だけはいっちょまえに返し、恥ずかしさと向き合えなかったと言い訳ばかりの手紙をつけ、勝井さんにゲラを返したのは2017年の暮れだった。
それから3ヶ月間、勝井さんから何の音沙汰もなかった。馬鹿なことをした迷惑をかけたとあきらめかけた春、何もなかったかのように二校が届いた。初校を放っておいた間に、ブログに書いた銭湯に行った日々と銭湯リストが足され、初校453ページだったゲラは461ページに増え、タイトルは『今日も銭湯日和 町々銭湯巡礼』と変えてあった。
二校とともに次の仕事の依頼があった。室生犀星記念館から出される二冊目の冊子『犀星スタイル』の挿絵だ。せっかくなのでお詫びと打ち合せも兼ねて、金沢へ行くことにした。室生犀星記念館で犀星の孫・室生洲々子さんにたくさんの資料を見せていただき、館内を見学し、夜は龜鳴屋に泊まらせてもらった。ミステリーファンだという勝井さんの蔵書、ハヤカワのポケミスが並ぶ畳の部屋だった。ポケミスの棚に、新聞だか雑誌だかの小さな切抜きが額装されて飾られていた。なんの記事ですかと尋ねると、種村季弘が金沢を訪ねた際、脳梗塞で倒れたときのものだと言う。
「種村さん浅野川で倒れたって自分で書いてるんだけど、ほんとは犀川の土手なんだよね。いやその時一緒にいたからさ。」
種村季弘中島らも西村賢太と、勝井さんが金沢で触れ合いつかみ合った作家たちの話はどれもはじめて聞く話ばかりだ。もったいない、ちゃんとどっかに書いて残してくださいよ、後々調べる人たちのためにも、と頼めば、だって文才ないもん、と逃げられる。
わたしだって文才ないもん。生きてる間に日記を出版した人たちはどうしていたのか。恥ずかしくはなかったのか。あまり削り過ぎても日記としてどうなのか。やっぱりここは戻してください、いややっぱり削ってください、と恥ずかしさで二転三転していると、勝井さんがこんなことを言う。
「解りづらいところを整えるのはいいけれど、後から直してはじめより面白くなった文章なんてないですよ。井伏鱒二だって晩年『山椒魚』をあんなにしちゃって。」
晩年の『山椒魚』は知らないが、その通りだと思いつつ、自分のこととなると、ではこのままで、とはなかなか出来ない。
「別に名前の表記だって、数字の表記だって、日によって違ってもいいんですよ。だってその日はそういう気分だったんでしょ。日記なんだから、全部揃える必要なんかないですよ。」
それでもどうにか整え、やっと「校正」らしきことをしはじめたのは三校あたりからか。タイトルも『銭湯断片日記』と落ち着いた。
校正が戻ってくるたびに、その間に行った銭湯のブログが足され、あとがきも足され、六校までいったゲラは初校から50ページ以上も増え、結果本文512ページとなった。
 念校と書かれた五校を読んでいたころ、石神井書林の内堀さんと会う機会があった。いま五校を読んでいるという話をすると驚かれ、戻ってくるたびにページが増えていると話すと、増えて戻ってきたら校正にならないじゃない、とまた驚かれた。
普通は著者がはじめに原稿を作って、それから校正をするからねぇ、ムトーの場合は勝井さんが先にゲラを作ったからね、と先日のトークショーでナンダロウさんに言われたが、原稿とゲラの違いもそのときまで知らなかった。
校正の他に、本文の活字、装画、描き文字、使う用紙、スピン、検印紙の絵と、決めなければならないことがたくさんあった。校正もデザインもプロにお願いしたらもっと楽に、もっといいものが出来上がるとわかっていたが、龜鳴屋がふだんそうした所に頼まないなら、わたしもそれに習おうと、ひとつひとつ勝井さんに相談しながら決めていった。
年ごとの章扉にその年に描いていた絵を使いたい、と言いだしたのはわたしだが、カラーページの印刷は金がかかるから、いっそのことこんなのはどお?と扉ごとの小さな絵の貼り込みを提案してきたのは勝井さんだ。9年分9枚、検印紙を合わせると1冊で10枚貼り込むことになる。500冊で5000枚だけど貼るの?貼れるの?と驚くと、いや一度に貼るわけじゃないから、注文がきたごとに貼れば大丈夫でしょう、と涼しい顔をする。
見本が龜鳴屋に届いた朝には電話があった。
「紙が思ってたより白過ぎるんだけど。毛の色も思ったより薄いような。どうする?ムトーさん、一冊ずつ上からなんか描いたり削ったりして汚す?」
言われて思い出したのは、以前勝井さんが話していたこんなことばだ。
「うちの本は本屋に置かないし、何冊も同時に並ぶ本じゃないから。1冊ずつ全部違っててもいいんですよ。誰にもわからないんだから。」
勝井さんになにか言われるたびにこれが龜鳴屋かとドキリとし、本来もっと自由なはずの本作りに勝手に枠をはめていた、自分の頭の固さにもドキリとした。
送ってもらった見本を見ると、いや紙の白さはこんなもんだし、銭湯っぽくていいんじゃない、下手に手を加えるよりはと、結局この話はここで終いになった。
2019年4月末。発売記念イベントに間に合うよう、貼り込み作業をしに金沢に行った。龜鳴屋のテーブルの上に年代順に小さな絵を並べ、ページに挟み、勝井さんが用意してくれたスティックのりで貼っていく。座ると腰が痛くなるからと、勝井さんは立ったまま作業する。2日間4人でやって出来上がったのは140冊。
5月末、貼り込み作業と署名を入れにまた金沢に行った。今度は勝井さんと2人で作業して30冊。前よりだいぶ早くなったと勝井さんが自慢げだ。
勝井さんが積まれた『銭湯断片日記』を眺めている。
「積み重ねたときのこの分厚い背表紙が好きなんですよ。毛の部分には2回ニスをかけていて。それが夜中に見ると光って見える。どうせ誰も気が付かないだろうけどね。」