断片日記

断片と告知

勝手口から入りませんか

2月の半ば、展示「犀星スタイル 武藤良子原画展」開催中の金沢の室生犀星記念館を訪ねた。搬入のとき、トークショーのときと合わせて、会期中3度目の金沢だ。1度目2度目に訪ねたときは、記念館のような大きな場所で展示するという固まりがまだ飲み込めず、3度目にしてようやく、ごくんと腹の底まで落ちていった気がする。

1階は常設展で、展示「犀星スタイル」は2階で行われている。ガラスケースの正面を観ると、まず額装された絵が眼に入り、下を観ると犀星が実際に使っていた雑貨や食器が並び、その周りに犀星や娘の朝子さん、孫の洲々子さんの書いた文章が並ぶ。

例えば、煙草を吸う犀星の絵の下には、犀星が愛用していた煙管、吸い口、ライターが置かれ、朝子さんの著書から煙草を吸う犀星の描写が引かれて展示されている。絵、愛用の品、文章と、いつもとは違う三方向から作家を照らし立たせている。

 下記の「勝手口から」は、来館者へ配る冊子へわたしが寄せた文章だ。犀星の作品にたびたび登場するタータンチェックの毛布。それがどれだけ厚ぼったいのか、色が鮮やかなのか、わたしはこの展示ではじめて知ることができた。洲々子さん、学芸員のSさん、スタッフのみなさんが開けて見せてくれた室生家の勝手口から犀星と出会うこの面白い試みは3月8日日曜までです。

室生犀星記念館

※2月28日追記 

コロナウィルスの影響で、3月8日日曜まで開催予定だった「犀星スタイル 武藤良子原画展」は本日28日で終了となります。明日2月29日から3月15日まで金沢市の全文化施設が休館となります。急なお知らせ申し訳ありません。

 

 

「勝手口から」

わたしと犀星を結んでくれたのは、金沢の版元・龜鳴屋の勝井さんだ。2016年の早春、『をみなごのための室生家の料理集』へ挿絵を描きませんか、と勝井さんから依頼のメールが届いたのがはじまりだった。

「武藤さんと犀星、これは合うなと。ささくれだってるけどナイーヴで、エロいけど純で、やぶれかぶれだけど周到で、猜疑的だけど寛容で、屈折しているけど風が通って、神経質だけど豪放で、とまあ、何かと似つかわしく思ったのです。」

一度も会ったことのない勝井さんから、はじめて届いたメールがこれだった。勝井さんがどんな人かは知らなかったが、龜鳴屋の名前は知っていた。金沢のひとり出版社、時代に埋もれていた作家を見つけ、こだわりの造本で再び世の中へ送り出す。そうして作られた本と龜鳴屋の名前は、わたしのまわりにいる本好きの人たちや、古本屋の店主の口からたびたびあがった。

挿絵の仕事を引き受けた。引き受けたが、わたしはそれまで室生犀星を読んだことがなかった。知っているのは教科書かどこかで読んだ「ふるさとは遠きにありて思うもの」の抒情小曲集くらい。『蜜のあわれ』はだいぶ昔に読もうと試み挫折していた。名前のうえに文豪とつく作家の作品は、わたしの頭で登るには高すぎる山のように思えていた。

やがて送られてきた資料には、犀星の孫・洲々子さんがおこした、室生家で作られ食べられていたレシピと、料理にまつわるエピソード、添えられた小さなイラストがあった。ボールペンか鉛筆かでくしゃっと描かれた卵焼きや豚のしっぽ。パウンドケーキの材料の小麦粉を体重計で計ろうとする犀星の娘・朝子さん。ストーブのうえの鍋をかきまわす犀星。作品を読むより先に、洲々子さんに開けてもらった台所の勝手口から、わたしは室生家に入っていった。

冊子 『犀星スタイル』の挿絵の依頼がきたのは勝手口から入った2年後だ。今度は、犀星の身のまわりのものを描く仕事だった。下駄、帽子、肌着と身につけるものから、整髪剤や煙草、部屋に置かれた骨董や机まわりの文房具、庭に咲く菖蒲まで、室生家の簞笥の中から庭の隅まで、とんとんとんと戸や引き出しを洲々子さんは開けて見せてくれる。

『をみなごのための室生家の料理集』と『犀星スタイル』、ふたつの絵の仕事をして、犀星のことを書いた朝子さんの文章や、朝子さんのことを書いた洲々子さんの文章を読んではじめて、この山は登っても息苦しくない、わたしにも登れる山かもしれないと思いはじめた。

少しずつ犀星の作品を読むようになった。『われはうたえどもやぶれかぶれ』は晩年の闘病記だが、病室でこっそり煙草を吸う場面が描かれている。『陶古の女人』は骨董蒐集の話で壷や飾り棚が出てくる。『杏っ子』にいたっては、モデルになった朝子さんから庭の苔まで、頁をめくるたびに、勝手口から簞笥の中まで見せてもらい知り合いになった顔たちが飛び出してくる。こうした読書ははじめてだった。

老作家と、自分を「あたい」と言う金魚の物語『蜜のあわれ』を読んでいるときだった。

「おじさま、もう、そろそろ寝ましょうよ、今夜はあたいの初夜だから大事にして頂戴。」

「大事にしてあげるよ、おじさんも人間の女たちがもう相手にしてくれないので、とうとう金魚と寝ることになったが、おもえばハカナイ世の中に変わったものだ、トシヲトルということは謙遜なこと夥しいね、ここへおいで、髪をといてあげよう。」

「これは美しい毛布ね。」

「タータン・チェックでイギリスの兵隊さんのスカートなんだよ、きみに持って来いの模様だね。」

「これ頂戴、」

「何にするの、厚ぼったくて着られはしないじゃないか。」

「大丈夫、スカートにいたします、まあ、なぜお笑いになるの。」

「だってきみがスカートをはいたら、どうなる、」

「見ていらっしゃい、ちゃんと作ってお見せするから。どう、あたい、つめたいからだをしているでしょう。ほら、ここがお腹なのよ。」

「お、冷たい。」

わたしはこのタータン・チェックの毛布を知っている。『犀星スタイル』の挿絵で描いた、赤地と黄色地のあのタータンだ。

わたしはのぞいてしまった初夜の寝室に、知った顔を見つけた。

 もしまだ、この大きな山を登らず見上げているだけの人がいれば、わたしのように勝手口から、簞笥の中から、入ってみるのはどうだろうか。見ていたときよりもこの山はずっと優しく、そしてわりと頻繁に、寝室の戸が開いている。